カシミール問題(読み)かしみーるもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カシミール問題」の意味・わかりやすい解説

カシミール問題
かしみーるもんだい

インド亜大陸の北西部に位置するカシミール地方の領有をめぐる印パ(インドパキスタン)間の領土紛争。英領インド時代のカシミールは藩王国であり、藩王はヒンドゥー教徒で藩民の約5分の3がムスリムイスラム教徒)であった。藩王と藩民の宗教上の食い違いが現代に至るカシミール問題の出発点となり、四度に及ぶ印パ戦争など、印パが対立する最大要因となっている。パキスタンは、英領インドのムスリム多住地域をもって建国され、ムスリム国家の理念を掲げる。だからこそ、パキスタンは、ムスリム多住地域のカシミールが自国領となるべきだと考え、インドにあることを容認できない。逆にインドは、総人口の約8割がヒンドゥー教徒であっても、カシミールが国内にあることで、国是ともいうべき政教分離主義を喧伝(けんでん)できるのである。

 1947年8月、英領インドが、インドとこれを東西両翼で挟む形でパキスタンに分割された際、カシミールではイギリスから帰属決定権を付与された藩王が最終的にインドを選択した。しかし、パキスタンはこれを認めず、カシミールへの進攻を図り、同年10月に第一次印パ戦争が勃発(ぼっぱつ)した。国際連合の調停により1949年1月に停戦が成立し、同年7月に印パ政府の協議により、カシミールを印パに分かつ停戦ラインが画定された。全カシミール(面積約22万平方キロメートルで日本の本州に相当)の半分弱をインド、36%をパキスタンがそれぞれ保有し、カシミールの一部であるアクサイチン(約17%)は1950年代に中国の管理下に入った。1965年9月の第二次印パ戦争を経て、1971年12月には第三次印パ戦争が発生した。バングラデシュ独立戦争ともいわれ、東パキスタンが西パキスタンからの独立を目ざして立ち上がると、インドが東パキスタンを軍事的に支援した。勝敗が判然としない過去2回の戦争とは異なり、第三次戦争ではインドが圧勝し、バングラデシュが誕生した。この戦争はおもにインド亜大陸東部で展開されたが、カシミールを含む西部でも戦闘が行われた。1972年7月には印パ両首脳が停戦のためのシムラー協定に合意したが、カシミール問題が主要な内容となっていた。同年12月に停戦ラインにかわる管理ラインが画定された。さらに1999年5月~7月には、カールギル(カシミール地方)で印パ戦争が起きた。第四次印パ戦争ともいわれる。印パ戦争とはカシミールをめぐる戦争である。

 インド側カシミールでは、1989年以降、インドからの分離運動が始まった。イスラム過激派はテロ活動を中心とする運動を展開し、2010年までに約5万人が犠牲になっているといわれる。当初は地元のムスリムが主体であったが、1990年代後半以降、州外のムスリム過激派が流入した。代表的な組織がラシュカル・エ・タイバ(純粋者の軍隊の意。略称LeT)である。LeTはパキスタンのCIAと称されるISI(三軍統合情報局)が背後で糸を引いているとも、タリバンアルカイダと関係するともいわれる。LeTは2001年12月のインド国会議事堂襲撃事件、2002年5月にジャム・カシミール州の陸軍駐屯地に対するテロ攻撃事件、2008年11月、約170名が殺害されたムンバイ・テロ事件を起こすなど、活発な活動を展開している。インド政府は、これらの事件に対するISIなどの関与を指摘し、態度を硬化させてきたが、パキスタン政府はこれを否定している。カシミール問題は核問題とともに両国関係の改善を妨げる最大要因となっている。

[堀本武功]

『堀本武功著「南アジアの地域紛争――1970年代以降のカシミール問題」(『南アジア研究』第5号所収・1993・日本南アジア学会)』『S・P・コーエン著、堀本武功訳「インドとパキスタンはなぜ対立するのか」(『アメリカはなぜインドに注目するのか――台頭する大国インド』所収・2003・明石書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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