インド・ムスリム連盟(読み)いんどむすりむれんめい(その他表記)All India Muslim League

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド・ムスリム連盟」の意味・わかりやすい解説

インド・ムスリム連盟
いんどむすりむれんめい
All India Muslim League

1947年8月のインド分離独立以前の主要なイスラム教徒政党。略してムスリム連盟、訳して回教徒連盟ともいう。最終的にパキスタン独立を実現させた。パキスタン成立とともに与党となり、パキスタン・ムスリム連盟All Pakistan Muslim Leagueと改称した。

 1906年12月末、インドのイスラム教徒上層の親英的でコミュナル(宗教社会別)な代表が、イスラム教徒の多いベンガル地方の新興都市ダッカ(現バングラデシュの首都)で、インド・ムスリム連盟を結成した。この背景には、イギリスによる1905年のベンガル分割(イスラム教徒の多い東ベンガルと、ヒンドゥー教徒の多い西ベンガルに分割)があり、ムスリム連盟は国民会議派の指導する民族運動に対抗する勢力として生まれた。さらに、これが1909年にコミュナル別の選挙制を導入したインド参事会法の改正の布石になった。インドへの自治の導入とともに、人口数でも経済力でも優位にあったヒンドゥーにイスラム教徒保守派が脅威を感じて、保護的な代表権の枠や行政、司法職への任用をイギリス支配者に請願した。連盟はこのコミュナルな立場を代表した。

 1937年の州選挙を契機として、それまでの保守政党から一変し、連盟は新中間層を加えて活力ある政党となった。ジンナーが強力な指導者となり、国民会議派に対抗した。1940年大会での「ラホール決議以後、ムスリム国家の分離独立を目標にし、1947年8月14日パキスタン独立を獲得した。独立直後は強力な政党であったが、1954年州議会選挙で東パキスタンで敗北し、1955、1956年西パキスタンで分裂が進行し、1958年クーデターで政党活動禁止を受けた。1970年総選挙では大敗し、勢力の回復はならなかった。

[加賀谷寛]

『加賀谷寛・浜口恒夫著『南アジア現代史Ⅱ』(1977・山川出版社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド・ムスリム連盟」の意味・わかりやすい解説

インド・ムスリム連盟
インド・ムスリムれんめい
All-India Muslim League

インド・ムスリムの政治団体,のちに政党。回教徒連盟ともいわれる。 1906年アーガー・ハーン3世総裁としてムスリムの社会的向上をはかるために結成されたが,その綱領にイギリスへの忠誠,ムスリムの利益の保護,前記の目的にそう他教徒との提携を掲げた。しかし実際にはインド国民会議派対立させ,民族運動を分断するというイギリスのおもわくがあった。第1次世界大戦時,イギリスがトルコと開戦したので不満が起り,イギリスへの忠誠を取除いて自治政府の樹立を目標に掲げ,指導者はアリー兄弟,M.ジンナー,アーザードらの若手急進派に移った。 16年にはインドの自治達成のため国民会議派とラクナウ協定を結び,共同憲法草案の作成,分離選挙制などでは協調した。しかし,37年州自治が実施されると国民会議派との対立が深まり,40年ラホール大会でパキスタン独立案を決議した。以後マウントバッテン裁定により,インド亜大陸は分割され,47年インドとパキスタンの2つの国として独立した。パキスタン建国後,一党独裁体制をしいたため,国民の支持は急速に後退していった。さらに,有力政治家の多くがムハージル (分離独立直前のインドからの移民) であったことや,ジンナーが 48年に死去したのに続き,51年には後継者のリヤーカト初代首相が暗殺されるなど,有力指導者を失ったことにより党勢は衰えていった。 58年に起きた軍事クーデターにより活動を停止したインド・ムスリム連盟は,その後パキスタン・ムスリム連盟に引継がれていった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「インド・ムスリム連盟」の解説

インド−ムスリム連盟
インド−ムスリムれんめい

全インド−ムスリム連盟

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