原口兼済(読み)ハラグチ ケンサイ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「原口兼済」の解説

原口 兼済
ハラグチ ケンサイ


肩書
貴院議員

旧名・旧姓
旧姓=才木

生年月日
弘化4年2月17日(1847年)

出生地
豊後国森(大分県)

学歴
陸軍兵学寮

経歴
森藩士の才木家に生まれ、原口家の養子となる。明治5年陸軍少尉に任官。陸軍戸山学校長、近衛歩兵第一連隊長などを務め、日清戦争には第4師団参謀長として出征。31年台湾守備混成第1旅団長、33年歩兵第17旅団長を経て、36年休職。37年日露戦争により復帰、韓国駐剳軍司令官、教育総監部参謀長から新設の第13師団長となり、樺太占領した。戦後、戦功により男爵を授けられ、40年予備役に編入。43年〜大正7年貴院議員を務めた。

没年月日
大正8年6月18日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「原口兼済」の解説

原口 兼済
ハラグチ ケンサイ

明治・大正期の陸軍中将,男爵 貴院議員。



生年
弘化4年2月17日(1847年)

没年
大正8(1919)年6月18日

出生地
豊後国森(大分県)

旧姓(旧名)
才木

学歴〔年〕
陸軍兵学寮

経歴
森藩士の才木家に生まれ、原口家の養子となる。明治5年陸軍少尉に任官。陸軍戸山学校長、近衛歩兵第一連隊長などを務め、日清戦争には第4師団参謀長として出征。31年台湾守備混成第1旅団長、33年歩兵第17旅団長を経て、36年休職。37年日露戦争により復帰、韓国駐剳軍司令官、教育総監部参謀長から新設の第13師団長となり、樺太を占領した。戦後、戦功により男爵を授けられ、40年予備役に編入。43年〜大正7年貴院議員を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「原口兼済」の解説

原口兼済

没年:大正8.6.18(1919)
生年:弘化4.2.17(1847.4.2)
明治期の陸軍軍人。豊後森藩(大分県)藩士才木寛吾の4男。原口等の養子となる。兵学寮を経て明治5(1872)年陸軍少尉に任官し,ドイツに派遣されたのち,戸山学校長,近衛歩兵第1連隊長を歴任した。日清戦争(1894~95)には大佐,第4師団参謀長として出征。戦後,少将に進級して歩兵第20旅団長,台湾守備混成第1旅団長,歩兵第17旅団長などを務めたが,36年休職。37年日露開戦により復職し,教育総監部参謀長などを経て中将に進み,新設の第13師団長に就任。樺太作戦に従事したが,ロシアの守備兵は少数で本格的な戦闘もなく占領に成功した。戦後その功により男爵。39年ふたたび休職となり翌年予備役。43年から大正7(1918)年まで貴族院議員

(戸部良一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「原口兼済」の解説

原口兼済 はらぐち-けんさい

1847-1919 明治時代の軍人。
弘化(こうか)4年2月17日生まれ。明治5年陸軍少尉。陸軍戸山学校長などをへて,日清戦争に第四師団参謀長として従軍。38年中将となり,日露戦争では第十三師団長などをつとめ,樺太(からふと)(サハリン)を占領した。43年貴族院議員。大正8年6月18日死去。73歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。陸軍兵学寮卒。本姓は才木。

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