口之津・口之津湊(読み)くちのつ・くちのつみなと

日本歴史地名大系 「口之津・口之津湊」の解説

口之津・口之津湊
くちのつ・くちのつみなと

[現在地名]口之津町西大屋名

早崎はやさき瀬戸に南に開く湊で、東方の有明海(島原湾)、西方のたちばな湾に通じる。湊津の機能があったことは史料上は中世からみえ、ポルトガル船の来航地であるとともにイエズス会の布教の中心であった。江戸時代においても風待ち・潮待ち港としての役割をもち、海上の流通上および防衛上の要衝であった。町名の大泊おおどまりは風待ち・潮待ちに由来する地名とされ、同所の焚場場、昭和三三年栄町となる)は船虫を焼く場所であった。景行天皇が肥後国玉杵たまき長渚ながす(現熊本県長洲町)にいた時、島原半島が陸続きか島かを確認させるため神大野宿禰を派遣した際(肥前国風土記)、神大野宿禰は口之津に船を寄せたという。建保三年(一二一五)有馬氏の祖という藤原経純が弁済使として口之津に入ったと伝える(「藤原有馬世譜」など)。永禄五年(一五六二)頃と推定される五月二日の大村純忠書状写(福田文書)に「口之津」とみえ、純忠は南蛮船が横瀬よこせ(現西海町)から平戸の間に着岸させると武器などが敵方に流れるとして当地などに来航させるため使者を派遣したので長与ながよ(現長与町)から外浦津までの道の手配を福田兼次に要請している。

〔キリスト教の影響下で〕

横瀬浦にポルトガル船が入港するようになると、有馬義貞はイエズス会上長コメス・デ・トルレス神父に使者を派遣して口之津湊を教会に提供するとともに布教や教会の建設を許可し、改宗を望む者にはそれを認めることを伝えている。これに対して一五六三年(永禄六年)トルレスはアルメイダ修道士を訪問させたところ、国王が統治を委ねている殿の邸に泊められ、義貞からクチノツの町の住民が説教を聴くよう命じた書状と、領内で布教を許可した書状を得ている。また領主とその妻子ほか二五〇名が洗礼を受け、高所に十字架を立て、仏寺を教会とした。クチノツは人口が多く、日本各地から人々が来航する湊で住民の理解もよいので重視され、日本人説教師を駐留させ、やがて全住民がキリシタンになったという。同年八月に横瀬浦が焼打ちされると有馬仙巌は領内に禁教令を出すが(フロイス「日本史」、一五六三年一一月一七日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信)、翌年撤回され、トルレス神父が来住するに伴い(七ヵ年に及んだ)、近郷からの移住者が増えてきた(一五六四年一〇月三日「フロイス書簡」・一五六六年一〇月二〇日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信など)

こうしてクチノツは布教の中心となり、一五六六年の復活祭は当地で行われ、その当日、口之津の街路は森のように多数の樹木や枝で飾りたてられ、夜通しの聖劇が上演された(フロイス「日本史」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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