日本歴史地名大系 「口之津・口之津湊」の解説
口之津・口之津湊
くちのつ・くちのつみなと
〔キリスト教の影響下で〕
横瀬浦にポルトガル船が入港するようになると、有馬義貞はイエズス会上長コメス・デ・トルレス神父に使者を派遣して口之津湊を教会に提供するとともに布教や教会の建設を許可し、改宗を望む者にはそれを認めることを伝えている。これに対して一五六三年(永禄六年)トルレスはアルメイダ修道士を訪問させたところ、国王が統治を委ねている殿の邸に泊められ、義貞からクチノツの町の住民が説教を聴くよう命じた書状と、領内で布教を許可した書状を得ている。また領主とその妻子ほか二五〇名が洗礼を受け、高所に十字架を立て、仏寺を教会とした。クチノツは人口が多く、日本各地から人々が来航する湊で住民の理解もよいので重視され、日本人説教師を駐留させ、やがて全住民がキリシタンになったという。同年八月に横瀬浦が焼打ちされると有馬仙巌は領内に禁教令を出すが(フロイス「日本史」、一五六三年一一月一七日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信)、翌年撤回され、トルレス神父が来住するに伴い(七ヵ年に及んだ)、近郷からの移住者が増えてきた(一五六四年一〇月三日「フロイス書簡」・一五六六年一〇月二〇日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信など)。
こうしてクチノツは布教の中心となり、一五六六年の復活祭は当地で行われ、その当日、口之津の街路は森のように多数の樹木や枝で飾りたてられ、夜通しの聖劇が上演された(フロイス「日本史」)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報