口之津村(読み)くちのつむら

日本歴史地名大系 「口之津村」の解説

口之津村
くちのつむら

[現在地名]口之津町町名まちみよう早崎名はやさきみよう西大屋名にしおおやみよう東大屋名ひがしおおやみよう

現口之津町域のすべてを村域とする。古くから津湊として知られ、島原街道筋には一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。口之津に臨む地域から北部にわたる西大屋名に唐人町とうじんまち三軒屋さんげんや真米まごめがあるが、大屋の地名は島原城主の松倉重政が武器・弾薬を格納した蔵屋敷があったことに由来するという。北部の富士ふじ山にある富士山ふじさん神社は天長三年(八二六)駿河国より分霊を勧請したと伝え、慶長年間(一五九六―一六一五)有馬氏が再建したとされる。唐人町はポルトガル船の上陸地であった。東大屋名に貝瀬かいぜ木之崎きのさき中尾なかお角屋すみや前方まえかた榎田えのきだなどがある。西大屋名の南の町名久木山くぎやま東方とうぼう八坂やさか仲町なかまち大泊おおどまり白浜しらはまなどがあり、大泊(東大泊)土平つちびらにある瀬高せだか観音は行基作と伝える十一面観音を安置する。温泉山満明まんみよう(現小浜町)末の大竜だいりゆう(のち静雲寺)は藤原純友の家臣平小軍太による開山という。天正八年(一五八〇)当地に馬鈴薯が伝来したとされる。同一九年加津佐かづさ(現加津佐町)で日本初の活版印刷が行われた際、当地のペテロ竹庵がこれに参加していたという。

町名の白浜海岸に花十字紋樽型のキリシタン墓碑(県指定史跡)がある。一六一二年(慶長一七年)のキリシタン迫害前は有家ありえ(現有家町)・口之津・島原などに布教機関としてレジデンシアが置かれていた。一六一四年長崎奉行長谷川藤広が棄教を強いるため高来たかくに来島した頃、口之津の多くの住民は妻子を伴って引払っていたが、ある者は死ぬつもりで、ある者は生抜く覚悟で、またある者は屈伏して名簿に署名し、なお当地にとどまっていたという(アビラ・ヒロン「日本王国記」)。慶長一七年の岡本大八事件を契機にキリシタンの拠点であった当地でも弾圧が始まり、同一九年幕府よりキリシタン詮議のため西国筋に派遣された山口重弘は長崎の後その子間宮伊治とともに高来郡に渡り、口之津に入って穿鑿を開始、「一村ノ士民、悉ク宗門改ノ判形堅ク致スマシキ」と応じたので、七〇名のキリシタンを捕縛のうえ教会跡に集め、譴責しておよそは改宗させたものの、中心人物と目されていたトマス荒木長右衛門ら張本人二五人はなおも本宗に立復しないので、体の節を抜き、手指を切るなどの拷問を加えたという(「耶蘇天誅記前録」「日本殉教録」など)

元和三年(一六一七)のローマ教皇パウロ五世の迫害を慰問する勅書に対する同六年の日本信徒奉答文(ヴァチカン古文書館バルベリニ文書)に「口津町」の嶺助太夫(上ちん)・長井宗半(かすはる)・荒木長右衛門尉(とめい)が署名している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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