大学事典 「古典語・外国語教育」の解説
古典語・外国語教育
こてんご・がいこくごきょういく
classical- and foreign language education
大学と古典語・外国語教育の関係は,錯綜している。大まかな図式としては,古い時代の大学でのギリシア語,ラテン語,ヘブライ語が,啓蒙時代以降,近代外国語に替わられるといってよい。しかし,ラテン語は大学の誕生から18世紀まで一貫して主要言語に留まったのに対し,近世大学を席巻したアリストテレスの母語ギリシア語の教育は中世末期にようやく始まり,しかもヘブライ語と並び本格化したのは17世紀であった。加えてギリシア語が熱心に学ばれることは少なく,ヘブライ語の最盛期は17世紀を中心にきわめて短命であった。近代外国語に目を転ずると,学術言語としてのその発展開始の遅さが目を引く。なかでも自他ともに近代学問の牽引役と認めたドイツの母語が,19世紀以前は大学での外国語として学ばれることがほぼ皆無だった点である。そうした諸点を念頭に置きながら,以下では各地の大学における古典語と近代外国語の導入の実態を時代を追って辿る。
[古典語の教育]
11世紀以降,スペインのトレド,南イタリアのサレルノで,アラビア語を介したギリシア語の知識が広がるが,アリストテレスなどは教会にとっては危険思想であり,パリ大学(フランス)でも1215年に禁書にされたが,1255年には許可され,人文学では必読文献ともなった。1453年のビザンティン帝国の崩壊が画期となり,15世紀半ば以降,大学でギリシア語が教えられるようになった。16世紀末にはギリシア語教育はヨーロッパ全土にいきわたる。
ヘブライ語については,エラスムス(1466-1536)による,ベルギーのルーヴェン大学と,スペインのアルカラ大学に設けられたコレギウム・トリリンゲCollegium trilingue(三言語学院,すなわちラテン語,ギリシア語,ヘブライ語)が最初とみられる。1530年,コレージュ・ド・フランス(Collège de France)の前身にあたる「コレージュ・ロワイヤルCollège royal(Collège de lecteurs royaux,王立教授団学校)」が設立されたが,そこにはヘブライ語,ギリシア語の講座があった。1587年にアラビア語が,1692年に古典シリア語が追加され,これはフランス革命期まで変わらなかった。
ラテン語の入門書・辞書としては,ウィリアム・リリー,W.(William Lily,1468-1522)が1511年に初版を出し,以後2世紀にわたり使われ続けた英語版の『ラテン語文法入門』,19世紀前半まで使用されたエゼキール・チーヴァー,E.(Ezekiel Cheever,1615-1708)によるアメリカ向け簡略本『アクシデンス,ラテン語簡略入門』『Accidence, a Short Introduction to a Latin Tongue』(1709年)などが挙げられる。しかし,15世紀に抜群の評判をとったラテン語文法の著者は,エリオ・アントニオ・デ・ネブリーハ,E.A.(Elio Antonio de Nebrija,1441-1522)である。1481年,ラテン語で刊行された『ラテン語入門』『Introductiones latinae』は,1486年にはカスティーリャ(イスパニア)語に翻訳され,初期宣教師たちの手によって新大陸に渡り,メキシコやペルーで用いられた。いうまでもなくネブリーハの貢献は,カスティーリャ語をラテン語に匹敵する地位に高める目的で著した『カスティーリャ語文法Gramática de la lengua castellana』(1492年)の出版である。
日本では1580年,滋賀の安土と長崎の有馬に設けられたイエズス会神学校(日本)(セミナリオ,初等教育機関)がラテン語を教えたが,1614年には閉鎖された。1581年に大分の府内に設けられたのち,島原,天草,長崎に移った中・高等教育機関コレジオもラテン語を教えた(1597年閉鎖)。ネーデルラント(オランダ)の植民地だったバタヴィア(インドネシア)でも,1642年にラテン語学校が設置され1670年に閉鎖されている。
アイルランドのウィリアム・ベイズ,W.(William Bathe,1564-1614)による『諸言語の扉』『Janua linguarum』(1611年)は,言語を文法によって別の言語で説明する「通常の方式」ではなく,「直接法direct method」という「異例の方式」による最初の言語入門書といわれる。教育学の父コメニウスの『開かれた言語の扉』『Janua linguarum reserata』(1631年)は,この書がもとになっている。北米のハーヴァード大学(アメリカ)(1636年創立)の初代学長ヘンリー・ダンスターの伝記によれば,構内ではラテン語の使用のみが許され,古典語としてはギリシア語のほか,ヘブライ語,カルデア語(古代バビロニアの言語),古代シリア語が教えられていた。同じくウィリアム・アンド・メアリー(1693年創立),イェール(1701年創立)でも,中級ラテン語と初級ギリシア語の習得が入学条件であった。18世紀半ば以降設立されたプリンストン(1746年創立)やコロンビア(1754年)等の大学でも入学条件は同様であった。
[近代外国語の教育]
イタリア語は16世紀には早くも,ヨーロッパの他の諸国の神学校や大学で教えられており,16世紀末から17世紀初めにはイスパニア(スペイン)語,フランス語は17世紀半ば以降,英語は18世紀から教授されていた。17世紀のドイツの諸大学を見るに,ハレではイタリア語が,インゴルシュタットやライプツィヒではロマンス諸語が学ばれていた。スヴェーリエ(スウェーデン)の大学では,東のウプサラが1637年から,南のルンドでは1669年から,フランス語が教授された。1730年代,ドイツのゲッティンゲンでは英語講座が開設された。ポルスカ(ポーランド)やマジャール(ハンガリー)を含む東欧圏の行政は,18世紀末までラテン語を用いたので,その必要性はこの頃まで継続された。
英語とドイツ語は近現代の学術語の代名詞といってよいであろう。しかし,英語は18世紀までは外国語としてどの国の大学の関心も引かず,ドイツ語は哲学者カント(Immanuel Kant,1724-1804)の活躍以前は,ほとんど学術的な用途に耐えないレベルの言語だったといわれている。大学での古典語中心から近代語への急激な転換と,近代諸言語自身の急速な変貌ぶりは目覚ましい。そうした転換や変貌の仕組みの解明にはさまざまな要因の分析を要するであろうが,科学革命以降の学術研究の発展に対する数学(数学の実験との結合)の貢献は無視できない要因のひとつであろう。
著者: 原 聖
参考文献: Nicholas Ostler, Ad Infinitum. A Biography of Latin and the World it Created, London, Harper Press, 2007.
参考文献: Agnès Blanc, La langue du roi est le français. Essai sur la construction juridique d'un principe d'unité de langue de l'État royal(842-1789), Paris, L'Harmattan, 2010.
参考文献: The Catholic Encyclopedia, New York, Robert Appleton, 1910.
参考文献: ピーター・バーク著,原聖訳『近世ヨーロッパの言語と社会』岩波書店,2009.
参考文献: Jeremiah Chaplin, Life of Henry Dunster, First President of Harvard College, Boston, Osgood, 1872.
参考文献: Auguste Vallet de Viriville, Histoire de l'instruction publique en Europe et principalement en France, Paris, Administration du Moyen Age et la Renaissance, 1849.
参考文献: 今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社,1990.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報