古橋村(読み)ふるはしむら

日本歴史地名大系 「古橋村」の解説

古橋村
ふるはしむら

[現在地名]木之本町古橋

河合かわい村の南東、東境の己高こだかみ(九二二・六メートル)南西麓山地と、谷口平野に立地。己高山に発するたに(大谷川)が集落内で高時たかとき川に合流する。古橋遺跡があり、高時川左岸のミツづか七曲ななまがづか、右岸のナラづか狐塚きつねづか平林塚ひらばやしづかなどに古墳が認められる。己高山西麓一帯に行基開基と伝える多くの寺院があった。応安四年(一三七一)一〇月三日の直仁親王令旨(妙心寺文書)によれば、親王は伊賀国長田ながた庄に替えて「伊香庄内古橋郷」を京都妙心寺玉鳳ぎよくほう院に寄進。郷中の飯福はんぷく(現廃寺)浅井亮政より特別の保護を受けていた(天文七年三月二日「浅井亮政書状」飯福寺文書)。浅井久政は法華三珠さんじゆ院某が雨乞のために、しらいが(尸羅)池へ赴くにあたり、河合郷と古橋郷に二〇人の人足役を賦課した(永禄三年六月二日「浅井久政下知状」古橋区有文書)。永禄一二年(一五六九)、ふるはし左近が杓扇を井口いのくち山王社(現高月町)に納入している(同年一一月吉日「富永庄所務帳」井口日吉神社文書)。天正三年(一五七五)一一月一一日、羽柴秀長は「古橋請所之儀」を二五〇石と決め、左京某・淡路某らを政所に任じた(「羽柴秀長書状」高橋文書)

古橋村
ふるはしむら

[現在地名]岩舟町静和しずわ

西は茂呂宿もろじゆく村、東は新井あらい(現大平町)、南は沖島おきのしま村、北は例幣使街道富田とみだ宿(現大平町)。天正一四年(一五八六)八月一〇日の佐野氏忠書下状(落合文書)に「古橋口」とみえるのは当地のことか。慶安郷帳に村名がみえ、田三一七石余・畑二〇三石余、幕府領。「寛文朱印留」では武蔵岩槻藩領。元禄郷帳では下総古河藩領、改革組合村では旗本市川領、旧高旧領取調帳では旗本市川・川路領の二給。

古橋村
ふるはしむら

中世の古橋庄の遺称地。近世初期には一村であったが、江戸時代に入り三村、その後四村に分立した。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)によれば、古橋から二〇〇疋を伊勢神宮に上納している。文禄三年(一五九四)一〇月一〇日の豊臣秀次朱印知行目録(寺西文書)によれば古橋村四〇七石余を含む一千石が寺西新五郎に宛行われている。慶長郷帳では古橋村の高七〇二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報