日本歴史地名大系 「古江浦」の解説 古江浦ふるえうら 鹿児島県:鹿屋市木谷村古江浦[現在地名]鹿屋市古江町鹿児島湾に面する近世の湊で、上浜丸場瀬(まいばせ)が古くからの湊であったという。現在近くに鹿屋港がある。元禄国絵図によれば鹿児島まで海上八里。志布志(しぶし)筋の起点で、「三国名勝図会」に「舟舶輻湊、行客絶えず、居民簷を並べ、人烟繁蕪せり」とある。鹿児島城下より肝属(きもつき)地方に往来するには当浦が定場とされたが、実際には高須(たかす)浦の方が便利であったという。鹿児島藩公認の浦で、文化三年(一八〇六)改の諸浦御奉公並万上納物定(列朝制度)によれば、浦男女七八、浦水手役四〇人立・雇水手役五八人立、魚運上銀九〇目・漁師銀一五匁であった。 古江浦ふるえうら 大分県:佐伯市古江浦[現在地名]佐伯市二栄(ふたばえ) 古江風無(かざなし)浦の北、佐伯湾に面し、向いは大入(おおにゆう)島高松(たかまつ)浦。慶長期(一五九六―一六一五)には戸穴(ひあな)村に属した。慶長六年六月の戸穴村検地指出帳(佐伯藩政史料)に古江浦とみえ、文禄二年(一五九三)の検地高は田高五石余・畑高二二石余・屋敷高二斗余、ただしすべて永荒引。慶長六年五月の戸穴村検地指出帳(同史料)によれば、同二年の検地高二三石余、すべて永荒引。同一四年には戸穴村のうち宮野浦組として浦名がみえ、水夫屋敷四軒(うち牢人二)で、分米一石七斗余(うち本役高一石三斗余、佐伯中の役高四斗余)であった(「戸穴宮野内組水夫屋敷高帳」同史料)。 古江浦ふるえうら 三重県:尾鷲市古江浦[現在地名]尾鷲市古江町輪内(わうち)湾のうち南西へ入込んだ賀田(かた)湾口の北岸、三木里(みきさと)浦の南方にある。北西に水晶(すいしよう)山(四六四・四メートル)がそびえ、冬の寒風を遮る。四季温暖の地で、平地が少ないため段階状に整地されている。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「古江村」と記され家数二一。江戸時代初期に木本組に属する。寛文(一六六一―七三)の頃古江浦と改称。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by