右左口村(読み)うばぐちむら

日本歴史地名大系 「右左口村」の解説

右左口村
うばぐちむら

[現在地名]中道町右左口

甲府盆地の南部、御坂みさか山地の支脈である日陰ひかげ(一〇二五・三メートル)の北麓に位置する。北方に向かって曾根そね丘陵が広がり、西側を日陰山頂西側の右左口峠に源を発する七覚しつかく川が流れ、東には滝戸たきど川が流れる。古関ふるせき(現上九一色村)から右左口峠を越えた中道往還が通る。小村七覚しつかく善藤ぜんとうがあった(甲斐国志)。当村は宿としての機能を果し、中心集落は宿ともよばれ七覚川最上流の右岸に形成された。その西方、同川の流域に形成された集落が七覚、宿と七覚の北方、曾根丘陵地帯の前縁部をなす米倉こめくら山の南麓に善藤がある。

戦国期には祖母口・姥口・上口とも記された。天正一〇年(一五八二)七月二三日の徳川家康印判状(右左口地区共有文書)に祖母口郷とみえ、当地の在家四七軒は往還の伝馬役を勤めていることを理由に、関塩相物などの諸役免除を認められている。同一八年九月には羽柴秀勝によって「往還之伝馬並塩干物之役」が先規の如く免除された(「羽柴秀勝印判状」同文書)。同一〇年四月一〇日、武田氏を滅ぼした織田信長は、帰国するため甲府を立って最初に「うは口」で宿泊した。このとき徳川家康は二重・三重に柵を作るなど水も漏らさぬ警戒をしている。信長は翌一一日払暁に当地を立ち、かしわ(迦葉)坂を経て本栖もとす(現上九一色村)についている(信長公記)。永禄三年(一五六〇)一二月一七日、武田信玄が甲斐国内六ヵ所の郷に一二〇盃の漆の進上を命じているなかに七覚がみえ、一〇盃が割当てられている(「武田信玄印判状」桑原彦次家文書)

慶長古高帳に右左口とみえ高六七三石余、幕府領。ほかに円楽えんらく寺領二九石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には記載されず、元禄郷帳でも幕府領で、ほかに同寺領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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