日本歴史地名大系 「吉原・吉原湊」の解説
吉原・吉原湊
よしわら・よしわらみなと
吉原は
「春のみやまち」に「よしわら」とみえ、京都から鎌倉へ下向途中の歌人飛鳥井雅有は、弘安三年(一二八〇)一一月二四日に田子宿の端にある潤井川を舟で渡った。さらに供の者を待つ間、当地にある家に入って暖をとりつつ富士山を見上げ、「竹取物語」や「富士山記」の話を思い起こしている。室町後期になると吉原湊は東海道における海上交通の要地として沿岸航海の船も出入りしていたものと思われる。長禄二年(一四五八)閏正月一七日の駿河国富士下方住人願文交名(米良文書)に「吉原」の道秀・藤左衛門・衛門次郎ら三人の名がみえ、紀州熊野那智大社の先達らが海上交通を利用して吉原湊を訪れたと考えられる。物資や人の往来は当然商業の発達を促したであろう。戦国期には軍事物資の集積地として重要性を増し、たびたび戦場となった。天文六年(一五三七)三月四日、鎌倉鶴岡八幡宮の社僧快元は吉原に在陣していた北条氏綱のもとへ赴く飛脚に託して巻数を送り、「富士河東郡」はことごとく思いどおりになったとの返礼を受けている(「快元僧都記」など)。四月二〇日には今川方に属した富士下方衆二四人が北条氏と吉原で戦い討死している(同書)。五月一日には吉原に在陣していた北条氏綱が応援として大道寺盛昌を呼寄せている(同書)。これに対して今川義元は同一四年に反攻を開始し、八月から北条氏康が守備していた吉原へ取懸り、武田晴信の援軍を得て北条軍を伊豆国三島まで押返して河東地域の覇権を取戻している(妙法寺記)。同二三年二月中旬、北条軍が富士
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報