吉崎村(読み)よしさきむら

日本歴史地名大系 「吉崎村」の解説

吉崎村
よしさきむら

[現在地名]羽咋市吉崎町

深江ふかえ村の北東、邑知おうち潟南縁の低平地に立地。吉崎川が北流して同潟に注ぐ。中世みなと保の内。貞和三年(一三四七)正月一五日の良韶寄進状案(永光寺文書)に「羽咋湊保吉崎」とみえ、無底良韶が地内の田地を寄進している。良韶は湊保北方の在地領主三階氏(藤原氏)の出身で、俗名は藤原家用(家持)といわれ、これより先永光ようこう寺塔頭大雄だいおう庵に吉崎の二〇〇刈の地を寄進している(年月日未詳「大雄庵田地注文」総持寺文書)。なお同田地は総持寺関係田畠注文(同文書)には「羽咋北方吉崎」とみえる。


吉崎村
よしざきむら

[現在地名]加賀市吉崎町

加賀国西端の村で、南は越前吉崎よしさき(現福井県金津町)、北は大聖寺だいしようじ川を隔てて塩屋しおや浦。越前からの入口にあたり、「延喜式」兵部省にみえる古代北陸道の朝倉あさくら駅を当地付近に比定する説(加賀志徴)がある。文明三年(一四七一)蓮如が越前吉崎に吉崎御坊を建立、参詣者のための宿坊が立並んで門前町が形成されたが、当地もその延長としてなんらかの恩恵に浴したと推定される。

近世には化粧けしよう町ともいい(江沼志稿)塩屋村瀬越せごえ村とともに三ヶ浦といわれ、北前船の一拠点となった。見谷屋・末富・岡田などの船主がいたが大船主は越前吉崎に多かった。


吉崎村
よしざきむら

[現在地名]八日市場市吉崎

東小篠ひがしこざさ村の南に位置し、南東九十九里浜に面する。しん川が村を縦断し、集落は浜方と岡方に分れる。西は長谷ながや村。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に吉崎とみえ、当村の高寿こうじゆ(幸寿)院が二本負担している。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では旗本菅沼領三〇六石・同大久保領一二八石で、野手組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によれば高四四六石余で、旗本天野領となっており、幕末まで同氏領。鰯の地引網漁が盛んであったためか、宝暦四年(一七五四)浜の境をめぐり長谷村と争論が起こり、東小篠村や野手ので村・今泉いまいずみ(現野栄町)など周辺の村々が仲介となり一応の解決をみている(江波戸家文書)


吉崎村
よしざきむら

[現在地名]三島町吉崎

中条なかじよう村の西、北は脇野町わきのまち村、南は上岩井かみいわい村。くろ川左岸にあり、集落は西の三島みしま丘陵沿いに北方へ与板よいた(現与板町)、南方へ関原せきはら(現長岡市)に通じる脇街道沿いにある。元和二年(一六一六)に高田藩領となって以降の支配の変遷は脇野町村と同じ。正保国絵図に高二六〇石余。天和三年郷帳では高二二一石五斗余(うち山高一石)。以後近世を通じて村高の変化がない。黒川流域の低湿地に開田されたために冠水の被害を受けやすく、かつ丘陵沿いであることと、脇野町村・上岩井村などと隣接して耕地の拡張が阻まれたことによると考えられている(三島町史)


吉崎村
よしざきむら

[現在地名]下仁田町吉崎

かぶら川が北境を東流し、東は馬山まやま村、西は青倉あおくら村、北は下仁田村と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳で枝村とする宮畑みやはた村とともにみえ、両村の合計高七八石七斗余はすべて畑方。天保九年(一八三八)の高三一七石余、家数五六・人数二六九、農間煮売屋一がいた(「諸商人渡世書上帳」桜井文書)。明治一〇年(一八七七)頃の家数五八・人数二九四、牡馬二〇、繭三二七貫目余・麻三五九貫目余などを産する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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