福井県あわら市吉崎にある浄土真宗本願寺派および真宗大谷(おおたに)派の寺。比叡山(ひえいざん)山門の迫害に苦慮していた蓮如(れんにょ)は近江(おうみ)(滋賀県)から当地に入り、1471年(文明3)朝倉敏景(としかげ)(孝景(たかかげ))の帰依(きえ)を受け、北潟(きたがた)湖を望む吉崎山に一宇を建て北陸布教の中心とした。当初一山は隆盛を極めたが、1474年3月南大門の多屋(たや)(宿坊)から出火し本坊などを焼失、翌年朝倉敏景の弟経景(つねかげ)に襲われ堂宇のすべてを失った。ただちに仮堂は建てられたが、1506年(永正3)宗徒と朝倉貞景(さだかげ)が争って敗北、さらに織田信長の軍火にかかりすべてを焼失した。江戸時代に本願寺派と大谷派が別院を置き再興したが、山上の旧地ではなく山麓(さんろく)に置かれた。現在は本願寺派の西別院と大谷派の東別院があり、それぞれ吉崎御坊を称している。なお、別院の近くに本願寺派の吉崎寺と大谷派の願慶寺(がんけいじ)がある。行事として蓮如忌(4月23日~5月2日)がある。
[清水 乞]
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…北陸道7ヵ国の一つ。加州。いまの石川県南半部。
【古代】
律令体制成立以前は越(こし)とよばれた地域の一部で,7世紀末の国評制の施行から奈良期を経て平安初期に至るまでは越前国に属したが,823年(弘仁14)に越前守紀末成(きのすえなり)の建議によって,越前国北半部の江沼・加賀2郡を割いて新たに立国された。律令国家にとって最後の一国建置である。立国にともなって,江沼郡北半が能美郡,加賀郡南半が石川郡として分郡され,江沼,能美,石川,加賀(南北朝期以後は河北)の4郡編成となる。…
…1948年福井地震により大被害を受けた。北部の吉崎には蓮如によって開かれた吉崎御坊(史)があり,寺内町が形成されている。【上田 雅子】
[歴史]
古来,北陸街道の要衝の地として栄え,また越前・加賀国境の地として両国抗争の戦場ともなった。…
…これらは戦国動乱の時代にふさわしく,濠,土居などで防御された囲郭都市であり,内部は寺院を中心に整然たる都市計画がなされている場合が多い。寺内町の早い例は,蓮如による越前吉崎御坊で,山上に多屋(田屋,他屋)が立ち並んだが,寺内町としての形態はまだ不十分であった。1479年(文明11),80年の山城の山科本願寺では寺内町が成立し,8町が〈在家又洛中に異ならず〉(《二水記》)という状況であった。…
…そのほか,中世には寺社の本山,本社に対して別院,末社などの出張所的機能をもつもの,またそこにある参詣人の休息所のことも他屋といったようである。たとえば蓮如が建設した初期の寺内町である吉崎御坊(現,福井県坂井郡金津町)において,他屋ということばが用いられている。これはその建設期に,在地の本坊を離れて本山の守護のために集まり経営に参加した坊主が実務の運営にあたった寺務所的機能をもったもので,門内の中心部分にあった。…
…このころ蓮如は,平易な文章で教義を表現した〈御文(おふみ)(御文章)〉(《蓮如仮名法語》)によって農民を教化した。農民を対象とする蓮如の布教は,ちょうど彼らが展開した支配者への闘争の時運に合致し,吉崎御坊は北陸農民の闘争拠点となった(加賀一向一揆)。その混乱を避け,75年蓮如は吉崎を去り,近畿の布教に従事した後,80年京都山科に山科本願寺を建て本拠とした。…
…寺内には,馬場大道が通り,南大門(吉崎山より七曲りへ通ずる所に比定),北大門(東別院付近に比定)も設けられ,蓮如に近侍する側近の役宅や大坊主衆の詰所(多屋(たや))も次々建てられていった。しかし親鸞影像は当時近江の大津(本福寺門徒道覚道場,のち近松御坊)に安置されていたから,吉崎御坊は,時の宗主が一時滞留していただけで,本山になったわけではない。また,蓮如の滞留期間はわずか4年余りにすぎない。…
…71年(文明3)4月上旬,京都を経て,越前吉崎に赴き,7月下旬同所に坊舎を建てた。これを吉崎御坊という。吉崎での布教は殷賑(いんしん)をきわめ,信者は奥羽からも集まった。…
※「吉崎御坊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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