吉木村(読み)よしきむら

日本歴史地名大系 「吉木村」の解説

吉木村
よしきむら

[現在地名]岡垣町吉木・公園通こうえんどおり一丁目・同三丁目

高倉たかくら村の北、汐入しおいり川下流域の平地(岡垣低地)に位置し、南部は丘陵性山地をなす。南西は野間のま村、西は三吉みよし村、北は松原まつばら村のうち元松原もとまつばら。北部にはおか松原の松林が連なる(続風土記)。中世の遠賀庄吉木郷の遺称地。高倉・三吉・野間の各村はかつては当村の枝郷として扱われた。また元松原も古くは当村のうちで、慶安二年(一六四九)に分村、松原村となった。集落は本村と早崎そうざきの二ヵ所(続風土記拾遺)、「地理全誌」では十王堂じゆうおうどうも加わる。本村西隣の丘上に中世の岡城跡があり、当地は同城の城下として発展した(「続風土記」など)。小早川氏統治の時代には同氏重臣の屋敷があり、また江戸時代初期には黒田氏重臣で黒崎くろさき(現北九州市八幡西区)の城主であった井上之房の別邸が設けられた。このため本村は町場化し、本町に矢口やぐち正矢口しようやぐち久保小路くぼしようじ、裏町に上古小路かみこしようじ・下古小路、横町に馬場瀬小路ばばせしようじ木下小路きのしたしようじ河原口かわらぐち(川原口)などの小町があった(地理全誌)。「続風土記附録」によると、ほりは麻生氏在城時代の岡城の堀跡といい、小早川氏の家臣鬼塚某(「吉木旧記」では二万石)の屋敷があったという。同じく小早川氏家臣横田太郎左衛門(「吉木旧記」には太郎右衛門とあり、代官)の屋敷跡は横田屋敷よこたやしき、上股助左衛門(「吉木旧記」では助右衛門とあり、一万石)の屋敷跡は上股屋敷かみまたやしきとよばれた。


吉木村
よしきむら

[現在地名]久留米市草野町吉木くさのまちよしき

矢作やはぎ村の西に位置し、耳納みのう山中に舛形ますがた山・白石しらいし山・城山・植立松山二ヵ所・御立藪三ヵ所などが描かれる(上三郡絵図)。永正五年(一五〇八)一一月三日の五条氏知行分坪付(五条家文書/史料纂集)竹野たかの郡「吉木分」六町がある。草野氏の本城とされる竹井たけい城跡が耳納山地中腹にある。なお安楽寺草創日記によると、康和三年(一一〇一)大江匡房が安楽寺(太宰府天満宮)に満願院を建立、田島たじま庄などを寄進した。「筑後地鑑」に山本郡田島村がみえ、吉木村内に字田島・東田島があることから当地に比定する説がある。


吉木村
よしきむら

[現在地名]新井市吉木

せき川右岸にあり、西条にしじよう村の北、北条きたじよう村の南に位置する。村域内に一の坪いちのつぼ地名があり、古代の条里制との関連が考えられている。また、つく屋敷田やしきだ屋敷添やしきぞえ門前もんぜんなど開発の古さを思わせる地名もある。

正保国絵図に村名があり、天和三年郷帳に高八八〇石八斗余、うち山高九石九斗九升・野高二斗四升九合とあり、ほかに新田高六六石余が記される。天和元年(一六八一)高田藩領はすべて幕府領となり、代官の支配を受けた。貞享元年(一六八四)代官設楽孫兵衛は頸城くびき大貫おおぬき(現上越市)にあった蝋点所を吉木村に移し、翌年には併せて陣屋を設置した。


吉木村
よしきむら

[現在地名]筑紫野市吉木

阿志岐あしき村の北にあり、宮地みやじ(天山)北麓、南西流する宝満ほうまん川流域に位置する。西方ではる川が同川へ合流し、東寄りを宝満川支流が南西へ流下していた。油須原ゆすばる村の米山こめのやま(米ノ山峠)に通じる道が通る。村名の由来について、昔は阿志岐村と一村であったが、「あし」という名を忌んで「よし」と言換え、のちに別村になったという(続風土記拾遺)。天文六年(一五三七)一二月一三日の大内義隆袖判下文(保阪潤治氏旧蔵文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)によれば、元吉対馬守が知行していた「与志岐」などにある三笠みかさ郡中の七町の地が飯田秀範に宛行われている。


吉木村
よしきむら

[現在地名]豊平町吉木

長笹ながささ村の東に西宗にしむね川を隔てて位置する。北は都志見つしみ、東は阿坂あざか、南東は今吉田いまよしだ、南は沼田ぬまた小河内おがうち(現広島市安佐北区)などの諸村に接する。北に石仏いしぼとけ山があり、その南麓を流れる西宗川支流沿いの台地上に村落が展開する。嘉禎五年(一二三九)正月日付の伊都岐島社造廻廊注進状案(新出厳島文書)に「一間 吉木分内」とみえ、嘉暦三年(一三二八)七月二三日付の熊谷直経と継母尼真継との所領相論に関する関東下知状(熊谷家文書)に「安芸国吉木村三分一、但此地者、笠間下野入道押領間、於六波羅訴申之由、直経申之」とある。


吉木村
よしきむら

[現在地名]豊前市吉木

八屋はちや村・今市いまいち村の東、宇島うのしま町の南、搭田とうだ村の北、岩岳いわたけ川左岸に位置する。伊佐成恒氏并相良氏略系図(成恒文書/大分県史料八)に、鎌倉時代の相良永頼(長頼)知行地として「豊前国上毛郡吉木・成恒・永久・土佐井」がみえる。年月日未詳の宇佐大宮司公敦譲状(志賀文書/熊本県史料 中世篇二)では「上毛郡内本今吉名并吉木壱町」が「田原女房」と号する宇佐大子に譲られており、公敦は鎌倉後期に宇佐宮大宮司としてみえる宮成公敦である。


吉木村
よしきむら

[現在地名]中島町吉木

忽那くつな(現中島)の西海岸に位置し、東はによう村、西は熊田くまた村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早郡の項に「吉木村 日損所、柴山有」とみえ、村高一九七石七升二合、うち田一二八石六斗五升七合、畑六八石四斗一升五合とある。

明治一一年(一八七八)の「伊予国風早郡地誌」に「往古ハ粟井郷松吉荘ニ属セシ所、後チ何ツノ頃トナク郷荘名自ラ廃ス」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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