大江匡房(読み)オオエノマサフサ

デジタル大辞泉 「大江匡房」の意味・読み・例文・類語

おおえ‐の‐まさふさ〔おほえ‐〕【大江匡房】

[1041~1111]平安後期の学者・歌人。匡衡まさひらの曽孫。博学で有職故実に詳しく、後三条白河堀河天皇侍読じとうをつとめた。著「江家次第ごうけしだい」、日記「江記」、説話集江談抄」など。

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精選版 日本国語大辞典 「大江匡房」の意味・読み・例文・類語

おおえ‐の‐まさふさ【大江匡房】

  1. 平安後期の学者。歌人、政治家。匡衡の曾孫。成衡の子。正二位権中納言に至る。神童といわれ、後三条、白河、堀河天皇侍読となる。著「江家次第」「続本朝往生伝」「本朝神仙伝」「遊女記」他多数。家集「江帥集」。「江談抄」はその談話の聞書。江帥(ごうのそつ)。長久二~天永二年(一〇四一‐一一一一

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改訂新版 世界大百科事典 「大江匡房」の意味・わかりやすい解説

大江匡房 (おおえのまさふさ)
生没年:1041-1111(長久2-天永2)

平安後期の学者,漢詩人,歌人。江中納言,江帥(ごうのそつ),江都督,江大府卿などともいわれる。唐名は満昌。大江家の流,参議音人(おとんど),中納言維時(これとき)の後,式部大輔匡衡(まさひら)の曾孫,父は大学頭成衡(しげひら),母は文章博士・宮内大輔橘孝親の女。4歳で書を読み,8歳で《史記》《漢書》に通じ,11歳で詩を賦し,世人から神童といわれた。16歳で文章得業生となり,18歳で対策に及第した。29歳で蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任ぶりであった。1088年(寛治2)参議となり,94年権中納言,97年(承徳1)大宰権帥を兼ね,翌年58歳で筑前に下向した。1102年(康和4)正二位に叙せられ,06年(嘉承1)再び大宰権帥となり,納言を去った。脚疾のため任地には赴任せず,11年大蔵卿となり,その年に薨じた。年71歳。後冷泉以下5代の天皇に仕え,東宮学士を3度務め,後三条・白河・堀河3代の天皇の侍読となるとともに,関白藤原師通や左大臣源俊房の知遇を得,また白河院の院庁の別当として院政政権の重要メンバーとして,院政に参与した。その死にあたり,〈才智は人に過ぎ,文章は他に勝る,誠に是れ天下の明鏡なり,(中略)朝の簡要,文の灯燭なり,良臣国を去る,歎くべく,悲しむべきか〉と藤原宗忠が《中右記》天永2年11月5日条で述べているように,博学能文の院政期最大の文人政治家であり,学者であった。

 彼は大江氏の官人として最高の地位に昇ったが,それはひとえに〈文道の徳〉によるものとみずから語っている。その多忙な官人生活の中で〈忙しきはやや閑あるにしかず〉という詩序を書いて,隠逸風雅の生活に思いをはせていた。前九年の役後,復命する源義家を〈器量はよき武士の,合戦の道を知らぬよ〉と評して,その兵法の師となった逸話は有名である。政治家としては故実先例を重んじ,儒教主義的な面をもつが,生活者としては老荘的な一面を示している。神儒仏道にひろく通じ,諸道兼学の啓蒙的百科全書家ともいえよう。わが国の神仙と目される37人の伝を記した《本朝神仙伝》,慶滋保胤(よししげのやすたね)の《日本往生極楽記》のあとを継ぎ,寛和以後の往生人42人の伝を録した《続本朝往生伝》は唱導文学のうえで,また彼の言談を蔵人藤原実兼が筆録したものといわれる《江談(ごうだん)》(《江談抄》)は説話文学のうえで,彼の制作した願文115編を撰録した《江都督納言願文(ごうととくどうげんがんもん)集》とともに院政期文学史の流れの中で注目すべき遺産である。そのほか彼の作品は《朝野群載》《本朝続文粋》などに,自照的な《暮年詩記》,批評文学としての《詩境記》,院政期の庶民生活をつづった《対馬貢銀記》《遊女記》《狐媚記》《傀儡子記(くぐつき)》《筥崎宮記(はこざきぐうき)》《洛陽田楽記》などの特色ある作品が見られる。《朝野群載》《中右記部類紙背漢詩集》,《本朝続文粋》(39編),《新撰朗詠集》,《本朝無題詩》(23首),《和漢兼作集》《鳩嶺集》などには,その漢詩作品が収められている。歌人としては歌会や歌合に参加出詠し屛風歌や風俗歌を献じ,自邸で歌合を催している。家集として《江帥集》があるほか,《後拾遺集》以下に約120首入集している。《万葉集》の訓点研究である次点にも関係した。彼は有職故実に精通し,陰陽道にも明るく,官人としては儀式典礼を尊重し,それを時代の要求と調和させるため関白師通の嘱に応じ《江家次第(ごうけしだい)》(《江次第》ともいう)21巻(現存19巻)を著し,長く朝廷の儀式典礼の規範となった。日記《江記》(《匡房卿記》《江都督記》《江中納言記》ともいう)があったが,死の直前みずからそれを焼却させ今は逸文が残るのみである。《和漢朗詠集》の《江注》もあったが,いまは逸文が残っているにすぎない。蔵書家としても知られ,二条高倉に書庫を営み,〈朝家ウスベキ期キタラバ,コノフミ失スベシ。火災オソルベカラズ〉と称していたが,後年焼亡してしまった。彼は王朝期を通じて卓絶した文人政治家として中庸的な保守主義者であるとともに,転換しつつあった院政期社会の庶民生活の動向にも敏感な関心を寄せ,きたるべき中世的文学の先駆的業績を残している点にも注目すべきである。その性格に屈折したところがないでもなく,院政期の重臣であるが,ときには〈心性委曲にして,頗(すこぶ)る直からざるところあり〉(《中右記》)と評されるところもあった。院政期の不安動揺の社会にあって,やや呪術家的神秘主義的傾向もあり,《江談》6巻には彼の変革期前夜の時代を予見する口吻もさながらに残されていて興味深い
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大江匡房」の意味・わかりやすい解説

大江匡房
おおえのまさふさ
(1041―1111)

平安後期の文人官僚。匡衡(まさひら)の曽孫(そうそん)。成衡(しげひら)の子。母は橘孝親(たちばなのたかちか)の娘。江大府卿(ごうたいふけい)、江都督(ごうととく)などと称された。幼年より俊才をたたえられ、1058年(康平1)対策及第ののち、尊仁(たかひと)親王(後三条(ごさんじょう)天皇)・貞仁(さだひと)親王(白河(しらかわ)天皇)の東宮学士、蔵人(くろうど)、美作守(みまさかのかみ)、左大弁、式部大輔(だいぶ)などを歴任して、1088年(寛治2)参議、ついで権中納言(ごんちゅうなごん)となり、二度にわたって大宰権帥(だざいのごんのそつ)に任じられ、正二位大蔵卿(きょう)に至った。天永(てんえい)2年11月5日没。彼は後三条天皇の側近となり、院の近臣として白河院政政権に深くかかわった官僚であるとともに、後三条・白河・堀河(ほりかわ)3代の侍読(じどく)に象徴される当代の学者の第一人者であった。著作も多岐にわたり、官僚的側面での著作に有職故実(ゆうそくこじつ)書『江家次第(ごうけしだい)』がある。これに対する文人としての著作も多方面に及び、『本朝(ほんちょう)無題詩』『中右記部類紙背(ちゅうゆうきぶるいしはい)漢詩集』『本朝続文粋(もんずい)』『江都督納言願文(がんもん)集』などに収められた詩・詩序・願文などの正統的詩文とともに、世事逸話を素材とした『遊女記』『傀儡子(かいらいし)記』『洛陽田楽(らくようでんがく)記』『狐媚(こび)記』などの作や、彼の言談を筆録させた説話集『江談抄』があり、また『続本朝往生伝』『本朝神仙伝』を編纂(へんさん)した。さらに歌集『江帥(ごうのそつ)集』があり、『後拾遺和歌集』以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)にも多く入集(にっしゅう)する。

[後藤昭雄]

『川口久雄著『大江匡房』(1968・吉川弘文館)』『大曽根章介他校注『日本思想大系8 古代政治社会思想』(1979・岩波書店)』


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百科事典マイペディア 「大江匡房」の意味・わかりやすい解説

大江匡房【おおえのまさふさ】

平安後期の学者,漢詩人,歌人。大江匡衡(まさひら)の曾孫。江中納言,江帥(ごうのそつ),江都督,江大府卿とも。家学の文章道(もんじょうどう)によって権中納言,大宰権帥(ごんのそつ)に進み,後三条天皇白河天皇・堀河天皇の侍読を務めた。博覧多識,詩文和歌にすぐれ,朝儀典礼に通じた。著作には有職故実(ゆうそくこじつ)書《江家次第(ごうけしだい)》,また《本朝神仙伝》《続本朝往生伝》《傀儡子記(くぐつき)》《遊女記》,日記《江記》などがある。その談話を筆録したものとして《江談抄》がある。
→関連項目赤染衛門大江氏神崎願文傀儡子記言談遊女

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朝日日本歴史人物事典 「大江匡房」の解説

大江匡房

没年:天永2.11.5(1111.12.7)
生年:長久2(1041)
平安後期の公卿,学者。大学頭大江成衡と橘孝親の娘の子。大江氏代々の家学である文章道を修め,豊富な学識によって朝廷に仕えた。特に天皇の学問的師としての奉仕を長く行い,後三条・白河・堀河の3代にわたって侍読を勤めた。蔵人,弁官,左衛門権佐および備中守,美作守などの受領を経て,寛治2(1088)年参議となり,公卿の座に列した。寛治8(1094)年,権中納言。永長2(1097)年に大宰権帥に任じられ,翌年下向,康和4(1102)年までその任にあった。長治3(1106)年,権中納言の任を去り,再び大宰権帥となるが,任地には下向しなかった。 朝儀典礼や貴族社会の有職故実に通じ,当代随一の学者として知られ,儀式書である『江家次第』,同時代の風俗を記した『傀儡子記』『遊女記』『洛陽田楽記』,あるいは『続本朝往生伝』のような伝記など,数多くの著作を遺した。漢詩・和歌にもその才能を発揮し,斬新な作風をみせ,また家学である漢文の技能を生かして,多くの人のために願文を作成している。さらに,伝聞収集した様々な逸話を,自己の学問の後継者と位置づけた藤原実兼に語り筆録させた『江談抄』が,この時代の代表的説話集として遺されている。日記として『江記』を書いたが,没直前に焼却したため,現在では,諸書に引用された逸文を含め,ごく一部の内容のみをみることができる。貴族社会において,家の秩序が確立していく院政期という時代の中で,学問を固有の技能とする家としての自己意識を強く持ち続け,その存続と継承のために終生腐心した。中世を通じて公武両政権の吏僚を輩出した大江家の地位を固めた人物であった,といえる。<参考文献>川口久雄『大江匡房』,山中裕『平安人物志』

(上杉和彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大江匡房」の意味・わかりやすい解説

大江匡房
おおえのまさふさ

[生]長久2(1041)
[没]天永2(1111).11.2.
平安時代後期の学者。匡衡の曾孫,成衡の子。歌人赤染衛門は曾祖母にあたる。4歳で書を読み,8歳で『史記』,漢書に通じ,11歳で詩を賦し,神童と称せられた。 16歳の天喜4 (1056) 年,文章得業生となり,学問料を支給されたが,これは菅原道真が 18歳で合格,評判になった例と比較しても異例に早い。同6年,方略試を受け,対策及第。 20歳の康平3 (60) 年治部少丞に任じられた。永長2 (97) 年大宰権帥,天永2 (1111) 年大蔵卿に任じられたが,この年の 11月に没した。彼は,「二朝の侍中 (蔵人) ,三帝の師」と称せられ,後三条,白河,堀河3代の天皇に信頼された。和歌,漢詩はもとより,歴史,儀式,遊芸から兵学にいたるまで通じていたといわれる。官途も大江氏一族のなかでは異例の昇進で,中納言にいたったのは破格であった。その著作は非常に多く,『江家次第』『江談』『江記』『本朝神仙伝』『続本朝往生伝』『遊女記』『傀儡子記 (くぐつき) 』その他が伝存している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大江匡房」の解説

大江匡房
おおえのまさふさ

1041~1111.11.5

平安後期の儒者・文人・政治家。匡衡(まさひら)の曾孫。成衡(しげひら)の子。東宮学士から蔵人・左衛門権佐・右少弁(三事兼帯)をへて,1088年(寛治2)参議,94年(嘉保元)権中納言。白河院別当・記録所寄人として白河院政を支える一方,関白藤原師通(もろみち)とも親交があった。朝廷儀式の故実に通じて「江家(ごうけ)次第」を著したほか,日記「江記(ごうき)」を残し,また談話が「江談(ごうだん)抄」にまとめられている。和漢文学にすぐれ,「江帥(ごうそち)集」「江都督(ごうととく)納言願文集」「続本朝往生伝」などを残し,「本朝続文粋」「朝野群載(ちょうやぐんさい)」や「後拾遺集」以後の勅撰集に多くの秀作を残す。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大江匡房」の解説

大江匡房 おおえの-まさふさ

1041-1111 平安時代中期-後期の漢学者,公卿(くぎょう)。
長久2年生まれ。大江成衡(しげひら)の子。治暦(じりゃく)3年東宮学士となり,後三条・白河・堀河天皇の学問上の師をつとめた。のち参議,権(ごんの)中納言,大蔵卿などを歴任。正二位。天永2年11月5日死去。71歳。通称は江帥(ごうそち),江都督,江大府卿。著作に「江家次第」「本朝神仙伝」など。
【格言など】高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞(かすみ)立たずもあらなむ(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「大江匡房」の解説

大江匡房
おおえのまさふさ

1041〜1111
平安後期の学者・歌人
権中納言兼大宰権帥。後三条・白河・堀河3代の天皇に仕えて記録荘園券契所の寄人 (よりゆうど) ,受領 (ずりよう) ,院庁別当などを歴任した。詩文にすぐれ,有職故実 (ゆうそくこじつ) に通じ,著書に『続本朝往生伝』『江家次第 (ごうけしだい) 』『江談抄 (ごうだんしよう) 』など。

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世界大百科事典(旧版)内の大江匡房の言及

【漢詩文】より

…次に,遣唐使が廃止された中期になると,国風文化勃興のきざしがあらわれ仮名文学が盛んになる。しかし文学の主流は大江匡房の《続本朝往生伝》に見られるごとく漢文学で,大江維時撰の《千載佳句》,紀斉名(ただな)撰の《扶桑集》,高階積善撰の《本朝麗藻》,大江匡衡の《江吏部集》,藤原公任撰の《和漢朗詠集》などが今日に伝えられ生彩を放つ。藤原明衡編の《本朝文粋》はこの期の作品を多く収めていて,珍重すべき漢詩文芸の宝庫である。…

【傀儡子記】より

大江匡房が芸能を記録した書。1巻。…

【江家次第】より

…《本朝書籍目録》には〈江次第廿一巻 中納言匡房卿撰〉とあり,もと21巻であったが,現在は巻16,21を欠く19巻。撰者大江匡房(まさふさ)はこの時期の代表的文人で,和漢の学を兼ね,朝儀典礼にも精通していたから,後世本書は儀式に関する最良の参考書として高い評価を与えられ,しばしば講書も行われた。関白藤原師通の委嘱を受けて匡房が本書を撰述したと伝えられており,撰述年代は11世紀末から12世紀初頭のころと考えられる。…

【江談抄】より

…平安末期の説話集。大江匡房(まさふさ)の談話を藤原実兼(さねかね)が筆録したもの。ただし間接的な聞書,また実兼以外の人物による筆録をも含んでいる。…

【江都督納言願文集】より

…全6巻。大江匡房が1061年(康平4)から1111年(天永2)にかけて作った願文編を帝王,仙院,后妃,大臣,諸卿,(欠),女人,尼公,上客,庶人に部類し収録する。全6巻のうち,六蔵寺本は今日巻四を欠き5巻,永享7年(1435)の奥書を持つ古写本。…

【三房】より

…時代の違いにより前三房と後三房とがある。前三房は平安時代の摂関期から院政期にかけて活躍した藤原伊房(これふさ),大江匡房(まさふさ),藤原為房。伊房は名筆として有名な藤原行成の孫で書家として高名なだけでなく,後三条天皇,白河天皇に仕えて実務家としても腕を振るった。…

【続本朝往生伝】より

…《日本往生極楽記》の後をついで往生者42人の行業を漢文体で記したもの。大江匡房(まさふさ)撰。1101‐11年(康和3‐天永2)の成立。…

【兵法】より

…古代の兵法は中国伝来のもので,《司馬法》《孫子》《八陣書》《太公六韜》《兵書論要》など多くの兵書が舶載されており,《日本書紀》の天智紀には兵法に閑(なら)える者に授位した記事がみえる。奈良時代では唐に留学した吉備真備(きびのまきび)が兵法にくわしく,平安時代では学者の家として著名な大江氏が歴代兵法を伝え,大江匡房(まさふさ)は源義家に秘法を授けたという。 しかし兵法の諸流派が喧伝されるようになったのは幕藩体制下軍学(兵学)が興隆してからである。…

【源義家】より

…このころ〈武勇の輩(ともがら)〉といえばほとんど源氏,とくに義家一党を指すほどに源氏の武力は成長していた。在京中義家は大江匡房(まさふさ)に兵法を学んだという。83年(永保3)陸奥守兼鎮守府将軍として赴任,任国に起こった清原氏の内紛を私兵をもって鎮定した(後三年の役)。…

【遊女記】より

…平安末期の漢文体の短文。漢文学者大江匡房が,江口や神崎の遊女たちの様を書き記したもの。それによると,当時西国から京への交通の要所にあたる神崎川には江口,神崎,蟹島などの遊里が発達していた。…

※「大江匡房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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