日本歴史地名大系 「吉浜村」の解説
吉浜村
よしはまむら
「雑書」正保三年(一六四六)六月二八日条に気仙吉浜とみえる。正保郷帳では田七貫七七六文・畑二〇貫三〇四文、ほかに新田一貫七九七文、松山がある。宝永二年(一七〇五)の人数改によれば人数八二一、鉄砲数一九(気仙史料)。
吉浜村
よしはまむら
〔中世〕
宝治合戦後の宝治元年(一二四七)六月、二階堂氏が当地域一帯を大河戸大隅前司(重隆)跡として獲得しており(「将軍家藤原頼嗣袖判下文案」二階堂文書)、文永八年(一二七一)と推定される二階堂行氏所領配分断簡(同文書)に「安房国北郡内吉浜村」とみえる。ただし前欠のためだれに譲られたかは不明。建武二年(一三三五)三月一一日、吉浜村法華堂の坊敷並びに門前田畠等が宰相阿闍梨日郷の師資相伝の地として安堵されている(「某袖判下文案」妙本寺文書、以下断りのない限り同文書)。文和二年(一三五三)四月一三日、二階堂氏清は吉浜村内中谷法花堂別当職などを日郷に安堵している(二階堂氏清判物)。このように妙本寺の支配権が鎌倉府の吏僚二階堂氏、次いで応永八年(一四〇一)以降は鎌倉鶴岡八幡宮に移行していることから(同年一〇月二七日鶴岡八幡宮別当袖判宛行状)、室町時代この地域一帯は鎌倉府の支配下にあったと考えられる。
吉浜村
よしはまむら
吉浜村
よしはまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報