吉浜村(読み)よしはまむら

日本歴史地名大系 「吉浜村」の解説

吉浜村
よしはまむら

[現在地名]三陸町吉浜

越喜来おきらい村の北にあり、東は吉浜湾に面する漁村。北は唐丹とうに(現釜石市)。西方大窪おおくぼ山腹から吉浜川が流れ下る。越喜来村から入った浜街道は吉浜湾沿いに北上、くわ(桑)だい峠を越える。平根ひらね扇洞おうぎほら白木沢しらきざわ、鍬台に一里塚があり、うち白木沢の一基を除き現存している。村名は古くは葦浜あしはまといい、のち今の名に改めたという(宝暦一一年「気仙風土草」)。慶長一六年(一六一一)一〇月二八日越喜来で津波に遭遇したビスカイノ一行は、翌二九日吉浜湾に船を入れ、湾口の根白こんぱくに上陸して一泊。「金銀島探検報告」には「夜は根白Cenbazuにて過せしが、同村は高地に在り海水之に達せざりき。我等は十分の給与を受け、航海士等は太陽を測りて四十度の所に在る事を発見せり」とあり、一行は気候などから当地より北へ進むことを断念し、翌日今泉いまいずみ(現陸前高田市)へ引返している。

「雑書」正保三年(一六四六)六月二八日条に気仙吉浜とみえる。正保郷帳では田七貫七七六文・畑二〇貫三〇四文、ほかに新田一貫七九七文、松山がある。宝永二年(一七〇五)人数改によれば人数八二一、鉄砲数一九(気仙史料)


吉浜村
よしはまむら

[現在地名]鋸南町吉浜

大帷子おおかたびら村の南に位置し、西は海(浦賀水道)に面する。房総往還が通る。日蓮宗の名刹妙本みようほん寺の所在地で、同寺関係の文書に地名が頻出する。

〔中世〕

宝治合戦後の宝治元年(一二四七)六月、二階堂氏が当地域一帯を大河戸大隅前司(重隆)跡として獲得しており(「将軍家藤原頼嗣袖判下文案」二階堂文書)、文永八年(一二七一)と推定される二階堂行氏所領配分断簡(同文書)に「安房国北郡内吉浜村」とみえる。ただし前欠のためだれに譲られたかは不明。建武二年(一三三五)三月一一日、吉浜村法華堂の坊敷並びに門前田畠等が宰相阿闍梨日郷の師資相伝の地として安堵されている(「某袖判下文案」妙本寺文書、以下断りのない限り同文書)。文和二年(一三五三)四月一三日、二階堂氏清は吉浜村内中谷法花堂別当職などを日郷に安堵している(二階堂氏清判物)。このように妙本寺の支配権が鎌倉府の吏僚二階堂氏、次いで応永八年(一四〇一)以降は鎌倉鶴岡八幡宮に移行していることから(同年一〇月二七日鶴岡八幡宮別当袖判宛行状)、室町時代この地域一帯は鎌倉府の支配下にあったと考えられる。


吉浜村
よしはまむら

[現在地名]笠岡市吉浜

大河おおこう村の南にあり、東は西浜ようすな村。西はおおげ村。寛永備中国絵図では、当村の位置する西浜村と大村の間は入海で「舟渡二町」とあり、吉田よしだ川・大河川・用之江もちのえ川・有田ありだ川の流出する土砂の堆積により遠浅の干潟を形成していた。寛文元年(一六六一)備後福山藩普請奉行本荘重政の差配で新田に造成され、翌二年木之目このめ(木之目村)大下おおげ(大村)を普請して用水を確保、同一一年には吉田川を延長して排水路(新川)とし、干害と水害を防止した。干拓前は河水が海に流入する辺りに葦が生えていたので村名になったといい、嘉永七年(一八五四)の一枚刷の備中国巡覧大絵図には「本作葦浜」とみえる。


吉浜村
よしはまむら

[現在地名]高浜市吉浜町

三河湾に臨む海浜の村。南は高取たかとり村・高浜村に接し、西はころもうら。標高五メートルを超える洪積台地と二メートル前後の沖積地よりなる。低地は江戸時代からの干拓新田。葭浜・芳浜とも記し、葭の茂る浜辺からこの村名が生れたと思われる。応永一六年(一四〇九)の「熊野道者日記」(大乗院記録)に「一所 吉浜郷」とあるのが初見。「増補地名箋云、輿志浜」と「三河志」に記す。正林寺しようりんじ貝塚があり、八幡社貝塚は、奈良から平安期に至る製塩土器を出土する。古代志貴しき庄に属し、高取村専修せんじゆ坊に伝わる方便法身尊像の裏書に「明応四年乙卯三月一日佐々木上宮寺門徒三川国碧海郡志貴荘吉浜郷」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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