日本歴史地名大系 「高浜市」の解説 高浜市たかはまし 面積:一三・六二平方キロ愛知県の中央南部、三河平野の西南隅に位置し、衣浦(きぬうら)湾に面する。標高約五メートルの洪積層よりなる台地と、河川流域および海岸一帯の低地よりなり、衣浦大橋によって半田市と結ぶ。高浜の地名は地形に由来するものと思われるが、応永一六年(一四〇九)の「熊野道者日記」(大乗院記録)に「一所 高浜郷」とあるのが初見。〔原始・古代〕縄文時代の遺跡は、正林(しようりん)寺および八幡社の標高七・五メートルの海岸沿いの洪積台地に分布する。また海浜の丘にある芳川(よしかわ)に弥生時代の貝塚がある。さらに籔田(やぶた)・赤井戸(あかいど)・王江(おうえ)・恩仁寺(おんにんじ)などから土師器・須恵器が出土するが、古墳時代の住居遺跡は発見されていない。「延喜式」に記される碧海郡の式内社六社のうち、和志取(わしとり)神社が市域内の旧高取(たかとり)村にあったとする説がある(三河志)。平安時代末に三河国司藤原保相が立券した志貴(しき)庄は、この地に及んでいたとされる(荘園志料)。〔中世〕浜三ヵ寺と称される高浜村の恩任(おんにん)寺、高取村の専修(せんじゆ)坊は、大浜(おおはま)村(現碧南市)の西方(さいほう)寺とともに、いずれも嘉禎年中(一二三五―三八)天台宗から真宗に転宗している。真宗は三河に広く分布し、応仁二年(一四六八)蓮如の布教とともにいっそうその力を増すが、専修坊は蓮如と関係が深い。正林寺貝塚・八幡社貝塚・芳川遺跡から行基焼の破片と内耳鍋などの破片が出土しており、中世集落がしだいに広まっていることがうかがえ、また「熊野道者日記」からも高浜・吉浜(よしはま)の郷名を知ることができる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高浜市」の意味・わかりやすい解説 高浜〔市〕たかはま 愛知県のほぼ中央,岡崎平野の南西隅にある市。 1970年市制。江戸時代中期碧海台地の良質の粘土と薪を利用し,三州瓦の産地として発展。特に塩焼釉薬瓦は有名。伝統的な黒瓦,陶管,土器の製造販売も盛ん。 65年頃から衣浦臨海工業地域の造成に伴い,機械工業,木材関連工業,自動車部品製造も行われる。 77年に臨港鉄道も開通し,衣浦大橋 (国道 247号線) で対岸の半田市と結ばれている。北部の吉浜は第2次世界大戦前からの専業養鶏地域。また,名古屋,豊田,碧南市への通勤圏として,宅地化が進展し,人口の増加も著しい。吉浜細工人形,えんちょこ獅子は県の文化財に指定。面積 13.11km2。人口 4万6106(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by