妙本寺(読み)ミョウホンジ

デジタル大辞泉 「妙本寺」の意味・読み・例文・類語

みょうほん‐じ〔メウホン‐〕【妙本寺】

神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺。山号は、長興山。文応元年(1260)比企能本ひきよしもとの建立。開山は日朗。池上本門寺と両山一首制をとるなど本門寺と深い関係にあった。→本門寺

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精選版 日本国語大辞典 「妙本寺」の意味・読み・例文・類語

みょうほん‐じメウホン‥【妙本寺】

  1. 神奈川県鎌倉市大町比企ケ谷(ひきがやつ)にある日蓮宗の本山。山号は長興山。文応元年(一二六〇)開創。一説には、文永一一年(一二七四)創建とも。開基は比企能本(日学)。開山は日蓮(日朗とも)。能本の父能員の宅地跡で、能員夫妻の法号を山号・寺号としている。この法系を比企谷門流という。

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日本歴史地名大系 「妙本寺」の解説

妙本寺
みようほんじ

[現在地名]鋸南町吉沢

浦賀水道を望む高台にある。中谷山と号し、本尊は日蓮真筆十界勧請曼荼羅。現在は単立。

〔創建の経緯〕

寺伝および天文一四年(一五四五)に住持日我の記した妙本寺年中行事(定善寺文書)によれば、建武二年(一三三五)吉浜よしはまの地頭佐々宇(笹生)左衛門尉義家(または重信)を開基として、日蓮面受の弟子日興の法系につながる日郷を開山として成立したとされ、日興門下のいわゆる興門派の流れを当初からくんでいる寺院であった。この創建の年次は、同年に「吉浜村法華堂」の敷地・門前田畠などが「宰相阿闍梨日郷師資相伝之地」と認められていることによると思われる(同年三月一一日「某袖判安堵状」妙本寺文書、以下断りのない限り同文書)。これが事実とすれば創建がさかのぼる可能性があるが、文書発給者はいまのところ不明である。

文和二年(一三五三)四月八日、日郷は日蓮真筆の本尊などを吉浜村中谷なかやつの法蔵に入れ、没後七年を経たら南条牛王丸(日賢、のち日伝)を出家させ坊主職を渡すように定め(日郷定書)、同月一三日「中谷法花堂別当職」などが安堵されている(氏清安堵状)。応永二年(一三九五)「妙本寺」の敷地などが鎌倉府の奉行人二階堂氏から安堵されている(一二月一一日二階堂行孝安堵状)。安房国きた郡は鎌倉時代には二階堂氏の所領であったことから、再び当地域に支配力を及ぼすようになったのであろう。なお妙本寺という寺号が史料にみえるのはこの年が初めてで、享徳年間(一四五二―五五)以降に定着するまでは、吉浜村内(中谷)法花堂、吉浜村中谷法花道場妙本寺などともみえる(応永一七年二月一八日某袖判奉栄快安堵状)。しかし二階堂氏の支配はこの時までで、応永八年一〇月二七日、「吉浜村内妙本寺坊地」が中納言法印(日伝)に安堵されており(某袖判安堵状)、この頃から鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)の支配を受けるようになったと思われ、鶴岡八幡宮別当の支配は享徳三年以降まで続く(同年一二月一五日定尊袖判安堵状)

〔住持の変遷〕

住持は日郷から日伝―日周―日祐―日永と続く。日郷は越後が生国で土岐氏の一門、日伝が伊豆南条氏であるのに対し、日周は下総国の千葉一門の木ノ内氏の一門で、日祐は安房吉浜藤平氏、日永は佐久間さくま大崩おおくずれ村の鳥倉氏の出自である(妙本寺年中行事)


妙本寺
みようほんじ

[現在地名]鎌倉市大町一丁目

なめり川左岸、比企ひきやつの谷奥にある。長興山と号し、日蓮宗、妙本寺派本山。開山日朗。本尊三宝祖師。明和―安永(一七六四―八一)頃は当寺と本覚ほんがく寺・妙法みようほう寺をもって日蓮宗の鎌倉三ヵ寺と称されたらしい(「一札書」妙本寺文書など)。長興山妙本寺縁起は、開基は比企能員の末子比企大学三郎能本で文応元年(一二六〇)の草創と伝え、山号長興は能員、寺号は能員室の法名にちなむといい、一説には日蓮が赦免されて鎌倉に帰った文永一一年(一二七四)比企大学三郎が私邸を喜捨したのに始まるという。寺地は建仁三年(一二〇三)に滅亡した比企一族の邸跡といわれ、一族の墓塔もある。当寺と現東京都池上いけがみの長栄山本門ほんもん寺、現千葉県平賀ひらがの長谷山本土ほんど寺とをあわせて朗門の三長三本と称された。とくに本門寺とは両山兼帯の関係にあり、住持は初め妙本寺に、次いで本門寺に居したというが、昭和二二年(一九四七)に分離した(長興山妙本寺志)

文和元年(一三五二)一一月日の将軍足利尊氏御教書(県史三)によると、この地にもと「新釈迦堂」があり、供僧が補任されていた。


妙本寺
みようほんじ

[現在地名]賀陽町北

槙谷まきだに川左岸、高陣こうじん山の西麓にある。具足山と号し日蓮宗、西身延にしみのぶと通称される。本尊勧請様式は二尊四士、曼荼羅。旧本寺は妙顕みようけん(現京都市上京区)、祖像は大覚が日朗から譲り受けたと伝える説法像。鎌倉末期以降、備中における日蓮宗の重要拠点寺院。江戸中期成立の当寺の縁起によると、当寺開創を日蓮入滅前年の弘安四年(一二八一)に置き、開基の大檀那を奥州伊達陸奥守の末子弾正朝義とする。

今日の研究では日蓮入滅の時点で、確認できる直弟と直檀の数はせいぜい数百人の単位にすぎず、その教線は佐渡・越後・信濃・駿河・遠江以東に限定され、畿内はおろか山陽地方に及んだという形跡は、確実な史料のうえで確認できないとされている。しかし当寺の縁起は、弘安四年開創説の経緯を次のように説いている。当寺の開基檀越伊達弾正朝義は鎌倉御家人で、日蓮の龍口法難のとき警護の武士として現場にあり、このとき日蓮の毅然とした態度に感じてその檀越となった。のち朝義は鎌倉将軍惟康から当寺のある備中野山のやま庄地頭職を拝領、備中入部のとき身延の草庵の日蓮のもとに参り、「大聖人御下向ありて、一寺を開給へと云、吾祖(日蓮)曰、我此山に閑居する事、かたくゆへありて也、西国に下るべき導師ありとて経一丸(日像)をよんで師檀の契約あり、吾祖具足山妙本寺と名付、開基日像経一麿御定おかれ、御直筆一部一巻の法華経、十界勧請の御本尊、朝義へ御授与也、此御経、後に名づけて矢留の御経といふ、入部の歳、当山を開き、斎料として高三百石納らる」。


妙本寺
みようほんじ

[現在地名]西区稲生町四丁目

稲生山と号し、法華宗。本尊釈迦如来。矢田やだ川と庄内川が合流する堤防の南側にある。永久二年(一一一四)の創建で(「名古屋市史」は永和二年創建とする)、もと真言宗であったが、応永年間(一三九四―一四二八)の住持日秀(応永二四年没)が日陣(応永二六年没)に帰依して日蓮宗に改宗したという(徇行記)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「妙本寺」の意味・わかりやすい解説

妙本寺
みょうほんじ

神奈川県鎌倉市大町比企(ひき)ヶ谷(やつ)にある日蓮(にちれん)宗妙本寺派の本山。長興(ちょうこう)山と号する。本尊は三宝(さんぼう)祖師。開山は日朗(にちろう)。1260年(文応1)比企能本(ひきよしもと)の草創と伝えられるが、一説には1274年(文永11)比企氏が日蓮に私邸を喜捨(きしゃ)したのが始まりという。1422年(応永29)佐竹入道常元(さたけにゅうどうじょうげん)(山入(やまいり)與義)が寺にこもり足利持氏(もちうじ)に攻められた際に当寺も炎上、1559年(永禄2)ころには復興されたようである(本門寺日現書状による)。長尾景虎(かげとら)(上杉謙信(けんしん))をはじめ各武将はその軍勢が寺内で狼藉(ろうぜき)することを禁じた。豊臣(とよとみ)秀吉も同様の禁令を出している。江戸時代に徳川家康が寺領を付与し、諸堂の修復、三宝諸尊の再興、釈迦堂向拝(しゃかどうこうはい)、鐘楼などがつくられた。

[田村晃祐]

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改訂新版 世界大百科事典 「妙本寺」の意味・わかりやすい解説

妙本寺 (みょうほんじ)

千葉県安房郡鋸南(きよなん)町にある日蓮正宗の寺。中谷山と号する。康永年中(1342-45)日蓮の孫弟子にあたる日郷が,この地の地頭笹生重信の寄進を受けて創立。のちに室町幕府里見氏らの保護を受け,里見義尭の帰依を得た日我(1508-86)が日蓮教学の上で一時期を画するなど,名僧が輩出した。日蓮自筆の曼荼羅本尊《万年救護大曼荼羅》をはじめ,多くの貴重な古文書を伝えている。
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百科事典マイペディア 「妙本寺」の意味・わかりやすい解説

妙本寺【みょうほんじ】

千葉県鋸南(きょなん)町にある日蓮正宗の寺。康永(こうえい)年中(1342年―1345年)日蓮(にちれん)の孫弟子日郷(にちごう)が,地頭笹生重信(ささおしげのぶ)から寺地を寄進され創立。里見氏の帰依を得た日我(にちが)以降も名僧が輩出した。日蓮自筆の曼陀羅本尊万年救護大曼陀羅などを伝えている。
→関連項目日蓮宗

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デジタル大辞泉プラス 「妙本寺」の解説

妙本寺

岡山県加賀郡吉備中央町にある日蓮宗の寺院。1281年創建。江戸時代前期に建てられたとされる番神堂は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の妙本寺の言及

【日朗】より

…82年(弘安5)日蓮は本弟子として6人(六老僧)を指定したが,日朗もその一人に加えられた。日蓮の信奉者であった武蔵池上の池上氏と親しく,日蓮は池上氏の館で没したが,この地にやがて本門寺が創建され,日朗はこれを主管して,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺とともに,東国に師の教えを広める拠点とした。弟子の育成にも努め,人材を輩出させた。…

【本門寺】より

…日蓮の直弟日朗も池上氏と親しく,日蓮の七年忌のころには別当と称しているところからすれば,この堂宇の主管者であったであろう。一方,日朗は,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の房舎を寺院化した長興山妙本寺に在住,これを弘通(ぐつう)と門弟育成の拠点としたので,本門・妙本両寺を主管したことになり,日朗以後も両寺一貫首(かんず)(住持)制がとられて近世にいたる。本門寺も日蓮示寂の霊場寺院として多くの末寺を抱え,日朗の弟子日伝による下総平賀の長谷山本土寺,妙本寺とともに,日朗門流=比企谷門流の中心である三長三本山の一つとして重きをなし,その教線を房総半島に伸張した。…

【妙顕寺】より

…他方,町衆社会に多くの信徒を得,また地方に教線を伸ばして諸国末寺を建立し,室町時代,京都最大の日蓮宗寺院に発展した。だが,それだけに叡山の迫害も激しく,堂舎を破却されたり,1393年(明徳4)には寺号を妙本寺と改称させられたりした(永正・大永(1504‐28)ころ妙顕寺の旧号に復する)。妙覚・立本(りゆうほん)・本能・妙蓮・本隆の京都日蓮宗(法華宗)の諸大寺は当寺から室町時代に分出したものである。…

※「妙本寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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