吉良城跡(読み)きらじようあと

日本歴史地名大系 「吉良城跡」の解説

吉良城跡
きらじようあと

[現在地名]春野町弘岡上 大谷

北に吉良ヶ峰(二四九メートル)がそびえ、南は弘岡ひろおか平野が一望できる丘陵上にあって、自然の要害となっている。弘岡城・吉良ヶ峰城ともいわれる。築城年代などは不明であるが、吉良氏代々の居城と考えられる。吉良氏は、平治の乱後土佐介良けら(現高知市)に流された源希義(頼朝の弟)の後裔と伝え、鎌倉末期頃から弘岡を基盤とする在地領主として勢力を伸ばした。南北朝には北朝方として活躍。室町期には森山(本拠地は森山)や木塚氏(本拠地は喜津賀)と対抗しながらしだいに勢力を拡大、戦国期には土佐の七雄の一人に数えられ、「長元記」は「吉良五千貫」と記している。

天文年間(一五三二―五五)吉良宣経の頃が全盛期で、周防国山口から南村梅軒を迎えて南学の基を開き、吉良条目を制定したことが知られる。しかしこれらについては「吉良物語」(県立図書館蔵)のほかほとんど伝えるものがなく、同書は天正年間(一五七三―九二)に成り、その後潤色されていることから疑義ももたれている。梅軒の来国については「霖雨晴れやらず長き日の徒然なるに、南村の梅軒と云ふ人来れり」と記し、その出国も宣経の死後「南村氏年老いたれば故郷へや帰りけん、又何方へや行きけん、此の国には居らざりけり」と述べるのみである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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