日本大百科全書(ニッポニカ) 「長野重一」の意味・わかりやすい解説
長野重一
ながのしげいち
(1925― )
写真家。大分市に生まれる。生後すぐ親戚すじにあたる長野家の養子となる。1932年(昭和7)東京に移り、38年に慶応義塾普通部に入学する。42年慶応義塾大学経済学部に入学、写真クラブ慶応フォトフレンズに参加し、野島康三(やすぞう)らの指導の下で写真撮影に熱中する。47年(昭和22)同大学を卒業し、名取洋之助が編集長を務める『週刊サンニュース』の編集部員としてサンニュースフォトス社に入社。49年『週刊サンニュース』廃刊にともない、名取の誘いで翌年創刊される「岩波写真文庫」のスタッフとなり、主に写真撮影を担当するようになる。54年フリーランスとなり、問題意識が明確で映像の切れ味が鋭いドキュメンタリー写真を次々に発表して頭角を表していった。
1960年1~12月号『アサヒカメラ』誌に「話題のフォト・ルポ」を連載。同シリーズは、高度経済成長期に入り大きく変貌しようとしていた日本の社会状況を、都会から地方までさまざまな角度から切り取ったルポルタージュで、そのあくまでも個人的な視点に徹した表現によって注目された。さらに同年、長野はベルリンで開催された報道写真家と写真編集者の第1回国際会議に日本代表として出席するため渡欧し、冷戦下の東・西ベルリンやユダヤ人強制収容所跡を取材する。この年、個展「ベルリン 東と西」(1960、富士フォトサロン、東京)および「話題のフォト・ルポ」などの旺盛な活動により、長野は日本写真批評家協会作家賞を受賞し、同世代のドキュメンタリー写真家の代表格とみなされるようになった。経済発展に沸き立つ60年代を批評的なポジションからとらえ返したこの時期の作品は、のちに写真集『ドリームエイジ』(1978)にまとめられることになる。
しかし、60年代後半以降、長野は次第に写真から映画やテレビCMの撮影に比重を移すようになる。この間も、『朝日ジャーナル』誌のグラビアページの企画・編集を担当し(1967~70)、森山大道(だいどう)、深瀬昌久(まさひさ)ら若手の写真家たちを起用するなど、写真の世界との関係は保ち続けたが、自ら作品を発表する機会はあまりなくなってくる。
その彼が、ふたたび写真撮影に集中しはじめるのは、80年代になってからである。幼いころから見慣れてきた東京の街が、「私の視線の中でしだいに遠のいていくように思えてきた」のをきっかけにして、スナップ撮影に取り組むようになる。世紀末の、どこか寒々しく違和感を感じさせる光景を、やや引き気味の視点でとらえた写真群は、写真集『遠い視線』(1989)や『東京好日』(1995)等にまとめられ、長野の写真家としての力量をあらためて強く印象づけた。さらに90年代以降になると、「私の出逢った半世紀」(1994、コニカプラザ、東京)、「この国の記憶 長野重一・写真の仕事」(2000、東京都写真美術館)など、彼の半世紀にわたる軌跡を回顧する写真展が相次いで開催され、その柔らかだが、長く記憶に残っていくような力を秘めたドキュメンタリー写真やスナップショットは若い世代にも影響を及ぼしはじめている。
[飯沢耕太郎]
『『ドリームエイジ』(1978・朝日ソノラマ)』▽『『遠い視線』(1989・アイピーシー)』▽『『1960 長野重一写真集』(1990・平凡社)』▽『『東京好日』(1995・平凡社)』▽『『時代の記憶 1945―1995』(1995・朝日新聞社)』▽『『日本の写真家28 長野重一』(1999・岩波書店)』▽『東京都写真美術館企画・監修『この国の記憶 長野重一・写真の仕事』(2000・日本写真企画)』