向井忠晴(読み)ムカイ タダハル

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「向井忠晴」の解説

向井 忠晴
ムカイ タダハル


肩書
元・蔵相,元・三井物産会長,ゼネラル石油顧問

生年月日
明治18年1月26日

出生地
東京

学歴
東京高商(現・一橋大学)〔明治37年〕卒

経歴
明治37年三井物産に入社、昭和9年常務取締役、14年から会長、16年には三井財閥を統轄する三井総元方の理事長就任、同財閥の大番頭として手腕を発揮した。20年貿易庁長官、27年日本工業倶楽部専務理事、第4次吉田内閣の蔵相に就任。その後は政財界から全て引退した。

受賞
勲二等旭日重光章〔昭和39年〕 勲一等旭日大綬章〔昭和45年〕

没年月日
昭和57年12月19日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「向井忠晴」の解説

向井 忠晴
ムカイ タダハル

昭和期の実業家 元・蔵相;元・三井物産会長;ゼネラル石油顧問。



生年
明治18(1885)年1月26日

没年
昭和57(1982)年12月19日

出生地
東京

学歴〔年〕
東京高商(現・一橋大学)〔明治37年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲二等旭日重光章〔昭和39年〕,勲一等旭日大綬章〔昭和45年〕

経歴
明治37年三井物産に入社、昭和9年常務取締役、14年から会長、16年には三井財閥を統轄する三井総元方の理事長に就任、同財閥の大番頭として手腕を発揮した。20年貿易庁長官、27年日本工業倶楽部専務理事、第4次吉田内閣の蔵相に就任。その後は政財界から全て引退した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「向井忠晴」の意味・わかりやすい解説

向井忠晴
むかいただはる
(1885―1982)

財界人、政治家。東京生まれ。1904年(明治37)東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業、三井物産に入社。海外支店勤務を経て、1933年(昭和8)取締役となる。1939年会長に就任し、戦時中の三井財閥のリーダーとして手腕を振るった。1943年、中国での穀物取引について軍部に糾弾され辞任。第二次世界大戦後、1945年(昭和20)12月貿易庁長官となるが公職追放。三井財閥解体後も裏面からその結束を支えた。日本化薬などの取締役を歴任し、1952年第四次吉田茂内閣蔵相となる。しかし貯蓄国債発行反対の立場をいれられず留任を断り下野する。その後、中国との貿易推進や三井財閥再建に尽力した。

[小田部雄次]

『向井忠晴著、向井忠晴追想録編纂委員会編・刊『追想録向井忠晴』(1986)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「向井忠晴」の解説

向井忠晴 むかい-ただはる

1885-1982 昭和時代の実業家。
明治18年1月26日生まれ。三井物産にはいり,常務をへて昭和14年から会長と三井合名常務理事を兼任,戦時下の三井財閥をひきいた。18年軍部から経済統制違反を追及され,辞任。20年貿易庁長官,27年第4次吉田内閣の蔵相となった。昭和57年12月19日死去。97歳。東京出身。東京高商(現一橋大)卒。旧姓は多(おお)。

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367日誕生日大事典 「向井忠晴」の解説

向井 忠晴 (むかい ただはる)

生年月日:1885年1月26日
昭和時代の実業家。蔵相;三井物産会長;ゼネラル石油顧問
1982年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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