近代日本の代表的財閥の一つ。
1673年(延宝1)伊勢(いせ)松坂出身の三井高利(たかとし)が江戸日本橋本町一丁目において呉服店越後屋八郎右衛門(えちごやはちろうえもん)ののれんを掲げたときに始まる。京都に仕入店(しいれだな)を設け、両替店を兼営し、幕府御用の呉服師・両替商となった。大坂にも進出した。1710年(宝永7)「大元方(おおもとかた)」という本部を京都に設置し、この機関を本拠として三井同族が共同所有の資本を営業各店に貸し付け、かつ全店を指揮した。大元方は後の合名会社に相当する組織であり、複式簿記の原理を取り入れた会計制度を採用していた。その事業は隆盛を極めたが、江戸中期以降停滞ぎみとなった。とくに呉服業は不振であった。たび重なる火災や奢侈(しゃし)禁止令がそれに拍車をかけた。維新期には朝廷方に加担し、小野組・島田組とともに新政府の財用方に登用され、大いにその財政・経済政策に協力したので、新政府からいろいろの特典を与えられ、急速に資本を蓄積した。
[安岡重明]
江戸期の豪商の多くは没落したが、若干の豪商は大変化に即応して財閥となった。三井、住友、鴻池(こうのいけ)などである。この転換を成功させたのは、優れた経営者たちであった。三井の場合は、三野村利左衛門(みのむらりざえもん)、中上川(なかみがわ)彦次郎、益田孝(ますだたかし)、団琢磨(だんたくま)などであった。彼らは事業活動を活発に行うかたわら、内部整備・体質改善に努力し、成果をあげた。明治初年、不振の呉服業を分離して三越(みつこし)呉服店とし、1876年(明治9)三井銀行と三井物産を設立し、1888年三池炭鉱の払下げを受け、銀行・物産・鉱山の三本柱をつくった。物産会社は設立時には三井直営ではなかったが、商法施行(1893)の直前に、呉服店とともに直営に切り換えられた。明治末の1909~1911年(明治42~44)には、銀行・物産・鉱山・倉庫を直営事業の株式会社とし、それら諸会社の全株式を所有する財閥本社三井合名会社(資本金5000万円)が設立され、三井コンツェルンの組織が整備された。安田財閥もまもなく三井に倣った改組を行ったし、他の財閥も三井の形態を参考にして財閥コンツェルンを組織した。
[安岡重明]
当初四つの企業を直系として出発した三井は、その後、直系・傍系の諸企業を多数擁して、日本最大の財閥に発展したが、商業・金融部門に重点を置き、三菱(みつびし)、住友に比べて重化学工業部門の比重は小さかった。工業化の進展に伴って、このことが三井財閥の弱点となった。昭和に入って、三井は社会主義的な運動や右翼的な運動から非難の対象とされ、1932年(昭和7)には団三井合名理事長が暗殺された。かわって責任者となった池田成彬(せいひん)は、三井報恩会をつくって社会事業に力を入れ、首脳の人事を刷新し、三井一族を第一線から退陣させた。1940年三井合名はいったん三井物産に合併され、2年後、物産の株式の25%が縁故公開された。1944年には三井本社はふたたび独立会社となった。こうして子会社が本社株を所有する形態が採用され、財閥本社の閉鎖性は後退し、戦後の財閥解体によって本社は消滅した。その後三井財閥をはじめとする多くの財閥は、傘下の諸企業との分離と合併を繰り返しながら企業グループを形成した。
[安岡重明]
『ジョン・G・ロバーツ著、安藤良雄・三井礼子監訳『三井――日本における経済と政治の三百年』(1976・ダイヤモンド社)』▽『栂井義雄著『三井財閥史 大正・昭和編』(1978・教育社)』▽『安岡重明著『三井財閥史 近世・明治編』(1979・教育社)』▽『松元宏著『三井財閥の研究』(1979・吉川弘文館)』▽『三井文庫編・刊『三井事業史』本篇全3巻5冊(1980~2001)』▽『安岡重明編著『日本財閥経営史 三井財閥』(1982・日本経済新聞社)』▽『安岡重明著『財閥経営の歴史的研究』(1998・岩波書店)』▽『麻島昭一著『戦前期三井物産の機械取引』(2001・日本経済評論社)』▽『麻島昭一著『戦前期三井物産の財務』(2005・日本経済評論社)』▽『若林幸男著『三井物産人事政策史1876~1931年』(2007・ミネルヴァ書房)』▽『木山実著『近代日本と三井物産』(2009・ミネルヴァ書房)』▽『久保田晃著『三井』(中公新書)』▽『菊地浩之著『日本の15大財閥――現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書)』
三菱,住友両財閥とともに近代日本の代表的な総合財閥。
三井家は江戸初期以来の松坂商人を出発に三都御用商人へと発展したが,幕末期,幕藩制の動揺とともに経営が行き詰まっていた。1867年(慶応3)に始まる明治維新期にいち早く新政府の御為替方に出仕した三井は,政府の財政・金融部門と結びつく新たな特権商人=政商へ転態した。この間,三井高福の統率下で番頭三野村利左衛門らの働きにより76年三井銀行,三井物産を発足させるなど,政府との結びつきをしだいに薄める方向で,急速な資本主義化に対応した事業・家政の近代化をはかった。やがて88年の官営三池炭鉱の払下げや鐘淵紡績,王子製紙,芝浦製作所(東芝),富岡製糸場など産業への投資を拡大し,政商から財閥への脱皮が進んだ。93年三井家大元方に代わる本部統轄機関として三井家同族会が設立され,その傘下で三井銀行,三井物産,三井鉱山,三井呉服店の4直轄事業がそれぞれ合名会社に改組された。日清戦争後へかけて,中上川(なかみがわ)彦次郎を重役とする三井銀行は5大都市銀行のトップを切り,益田孝の下で三井物産は石炭・綿花・綿糸・生糸・機械等を基軸商品に総合商社へ飛躍し,また団琢磨の下で三井鉱山は石炭採掘を中心に三池から筑豊へ進出し,これらの多角的事業部門は資本所有者三井家同族会によって有機的に統轄されていた。1900年三井家は顧問井上馨の指導で穂積陳重(ほづみのぶしげ)が起草した三井家憲を制定した。家憲に基づき三井同族11家の身分・財産・事業・生活等が規定されて資産の共有体制が確定し,同族集団による資本の閉鎖的独占所有を基礎とした財閥が成立をみた。同時に政商時代と変わって,三井家は男爵を授かり華族に列し,また財閥に特恵的な各種の政府助成や日銀金融などのように日本資本主義の確立過程で構築された国家と財閥との機構的構造的相互連係が深められたことも財閥化の特徴である。
1909年日露戦争後の一層の事業発展に応じた改組が進み,三井11家を出資者とする持株会社三井合名会社(資本金5000万円)が設立され,本部統轄機関も事業(三井合名)と家政(同族会)とに分離された。三井合名社長には三井家同族会議長の三井高棟(たかみね)が就任し,顧問益田孝,参事団琢磨らが首脳として傘下事業の統轄に当たった。なお,14年シーメンス事件をきっかけに理事長制が設けられて団が理事長になった。銀行,物産,鉱山の三大直轄事業は直系株式会社に改組されたが,全株式(資本)を三井合名になった三井の本部が所有することに変りなかった。
三井合名を本社部門として三大直系会社を柱に主要産業部門へ投資を拡大した三井財閥は,1910年代第1次大戦期のブームにのって莫大な利潤を獲得し,続く20年代の慢性恐慌過程で資本の集中を一段と強め,多角的事業基盤をさらに広げた。昭和恐慌直前の29年,東京日本橋に総工費2100万円の7階建て三井本館ビルが完成,三井合名ほか三井銀行,三井物産,三井鉱山の各本社がここに集中し,全盛時代の三井財閥を象徴する偉容を誇示した。このとき三井合名は資本金3億円,三大直系会社は各1億円の巨大独占企業に成長し,さらに新設の三井信託,三井生命が直系会社に加わり,また傘下の関係会社は鐘淵紡績,王子製紙,芝浦製作所,北海道炭礦汽船,小野田セメント,日本製鋼所,電気化学工業,大日本セルロイド,熱帯産業,東洋棉花,台湾製糖,東洋レーヨン,日本製粉,北海道硫黄,釜石鉱山など100社を超え,三井の投資総額は約3億5000万円に達していた。財閥は隔絶した金融力,資本力とみずからの主導によるカルテル組織によって経済支配力を強め,莫大な独占利潤を上げていたのである。たとえば,日本貿易総額に占める三井物産取扱高のシェアは20%前後,日本石炭生産高に占める三井鉱山のそれは十数%であり,直系会社を中心にした傘下会社からの配当金を収入源とする三井合名の公表利益金だけでも年平均2000万円を超えていた。
1930年ドル買事件やそれに続く昭和恐慌の打撃は国民の財閥糾弾を募らせた。32年3月団琢磨三井合名理事長が血盟団員のテロで暗殺され,三井の〈転向〉が始まった。総帥三井高棟は代を高公に譲って隠退し,団に代わった池田成彬によって株式の公開や定年制導入,三井報恩会設立による社会事業への多額の寄付などが相次いで実行された。一方で満州事変勃発から日中戦争を経て太平洋戦争へと戦時経済が進行するなかで,財閥はその事業基盤を軍需中心の重化学工業に拡大せざるをえなくなり,資本需要が著増した。三井の総投資額は37年には6億円を超えた。この段階で財閥家族による資本の閉鎖的独占は破綻し,財閥本社自体の株式公開による社会的資金の動員が不可避になった。40年8月いったん三井合名は三井物産(株)に合併され,さらに44年3月株式会社三井本社が設立された。また,43年3月には三井銀行,第一銀行の大合同で帝国銀行が発足し,三井傘下事業の系列融資体制が強化された。
敗戦後,経済民主化改革の一つとして財閥解体が実施された。持株会社三井本社は46年9月解散させられ,持株は持株会社整理委員会の手によって処分された。また財閥家族の指定を受けた三井11家の企業支配が排除された。ここに財閥本社=財閥家族を中核とした財閥は最終的に解体した。このとき三井物産は解散させられたが,帝国銀行はそのままでまた他の傘下事業の多くも分割程度で存続し,戦後の企業集団三井グループの結集へ継承された。その再結集は1950年に結成された三井系諸企業首脳部の連絡会議,月曜会と,60年の三井系18社の社長会である二木(にもく)会の結成に象徴される。96年8月現在,二木会は26社,月曜会は78社でそれぞれ構成されている。
→三井家
執筆者:松元 宏
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三井家が支配した財閥。近世最大級の両替商・呉服商であった三井家は,幕末・維新期の激動をのりこえて,1876年(明治9)三井銀行・三井物産を設立。また三池炭鉱を官業払下げで入手し事業の基礎を確立した。1909年三井銀行・三井物産を,11年には三井鉱山をそれぞれ株式会社に改組,本社機能は持株会社三井合名を設立して,コンツェルン形態を整えた。この組織形態は他の財閥にも大きな影響を与えた。その後子会社として三井信託・三井生命を,孫会社として東洋レーヨン・小野田セメント・東洋高圧工業などを設立したが,製造部門の拡大は三井物産・三井鉱山の子会社が中心となった。三井の本社組織は改組をへて44年(昭和19)三井本社となったが,財閥解体により46年解散した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ100石の地侍であったが,彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり,のち井上家に復帰。…
…広義には,家産を基礎とし,同族支配に特徴づけられた企業集団を指すことばで,ロックフェラー財閥,クルップ,ターター財閥,モルガン財閥,クーン=ローブ財閥,ロスチャイルド財閥(ロスチャイルド家),浙江財閥などと使われるが,狭義には,第2次世界大戦前の日本におけるファミリー・コンツェルンfamily Konzernを指す用語である。大は三井財閥,三菱財閥,住友財閥の三大総合財閥から,安田財閥,川崎財閥などの金融財閥,浅野財閥,大倉財閥,古河財閥などの産業財閥,小は数十に及ぶ地方財閥が存在したが,家族ないし同族の出資による持株会社を統轄機関として頂点にもち,それが子会社,孫会社をピラミッド型に持株支配するコンツェルンを形成していた点に共通点がある。第1次世界大戦後とくに1930年代に登場した日産コンツェルン,日窒コンツェルン,日曹コンツェルン,理研コンツェルンなどは,家産に基づく同族支配の性格は薄かったが,コンツェルン形態をとっていたことから新興財閥と呼ばれた。…
※「三井財閥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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