日本大百科全書(ニッポニカ) 「和佐大八郎」の意味・わかりやすい解説
和佐大八郎
わさだいはちろう
(1661―1713)
江戸時代の弓術家。大八とも。寛文1年生まれ。紀伊(きい)藩士で才右衛門(さいえもん)、範遠(のりとお)と称した。幼少より膂力(りょりょく)人に優れ父森右衛門実延(さねのぶ)より弓の手ほどきを受けた。その才能に恵まれ、後に紀州竹林派の名師吉見台右衛門(だいえもん)(順正)に師事し印可を受けた。1684年(貞享1)4月29日京都三十三間堂において全堂千射を行ったが射損じ、959射のうち865本を射通し、貞享3年4月27日全堂大矢数(おおやかず)で惣矢数1万3053射のうち通り矢数8133本の記録を樹立し射越(いこし)(日本一のこと)の名誉を得た。この記録は尾張(おわり)藩士星野勘左衛門の記録を17年ぶりに更新した記録であり、尾州と紀州との日本一争いに終止符を打った。その後この記録を破った者はいない。
大八郎はこの功により同年6月300石、貞享5年4月500石で射手役、1689年(元禄2)3月弓術印可、元禄8年頭役(かしらやく)、元禄9年近習(きんじゅ)頭役となったが、1709年(宝永6)さる事により田辺(たなべ)に謫居(たっきょ)、正徳3年3月24日53歳で病没した。戒名は到蓮院安誉休心居士。門人には和佐貞恒(さだつね)(大八の子)、西川如治(なおはる)(実如)などがいる。
[入江康平]
『堀内信編『南紀徳川史』(1970・名著出版)』▽『小野崎紀男編著『弓道人名大事典』(2003・日本図書センター)』