哲多郡(読み)てつたぐん

日本歴史地名大系 「哲多郡」の解説

哲多郡
てつたぐん

和名抄」は諸本ともに訓を欠くが、平城宮跡から出土した木簡に「手田郡」とあることから、古くは「てた」と読んだことは間違いなく、「拾芥抄」に「テタ」の訓がある。後世「哲多」の表記から「てった」と読むようになった。近代の訓は「テッタ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。「和名抄」によると石蟹いしが新見にいみ神代こうじろ野馳のち額部ぬかたべ大飯おおい六郷からなり、令制の区分では下郡にあたる。式内社はない。郡は高梁たかはし川上流の備中国の最北西部に位置し、東は高梁川を挟んで備中国英賀あが(阿賀)郡、南は同川上かわかみ郡、西は備後国、北は中国山地で伯耆国に接した。現在の新見市西部、阿哲あてつ郡哲多町・哲西てつせい町・神郷しんごう町の地域にあたる。当郡にかかわる古代の史料はきわめてすくなく、そのため従来から額部・大飯の郷域も不明とされている。

郡域内の主要な遺跡についてみると次のとおりである。旧石器時代の石器群が層位的に良好な状態で発見された野原のばら遺跡(神郷町高瀬)、縄文時代後期の小集団の居住地として時々利用されたことの判明した佐藤さとう遺跡(哲西町上神代)、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて連続的に墳墓を営んでいる横見よこみ墳墓群(新見市上市)、二基の方形台状墓と一三二基の土壙墓が検出された弥生時代後期の西江にしえ遺跡(哲西町上神代)、尾根筋に一一基の古墳の存在する光坊寺こうぼうじ古墳群(哲西町矢田)などがある。なお西江遺跡では一般に製塩土器と考えられているものに類似した土器が四〇〇片近く出土した。

〔古代〕

平城宮跡から現在までのところ三点の当郡関係の木簡が出土している。

<資料は省略されています>

右の三点はそれぞれに問題を含む。(二)は天平一六年(七四四)の年紀をもっており、この時期にはすでに郷里制の施行が終わっており、本来ならば「石成郷」と記すべきところを「里」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報