日本歴史地名大系 「唐竹村」の解説 唐竹村からだけむら 青森県:南津軽郡平賀町唐竹村[現在地名]平賀町唐竹阿蘇(あそ)ヶ岳北方の谷から発する唐竹川右岸の河岸段丘上に細長く集落が発達し、唐竹川の平野部の出口に新館(にいだて)村と沖館(おきだて)村がある。唐竹には多くの遺跡があり、また阿蘇ヶ岳西麓から長峰(ながみね)村(現大鰐町)へ、軍馬平(ぐんばたい)から小国(おぐに)村を経由して鹿角(かづの)(現秋田県鹿角郡小坂町・鹿角市)へ、白手(しらて)山から碇ヶ関(いかりがせき)村(現碇ヶ関村)への道があり、また他の季節道路や杣道も多く、北上してきた中央文化が津軽へ入る要衝であり、したがって軍事的にも重要で、集落全体が城砦であったと思われる。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「唐竹」とある。古館跡は二重堀で、南北朝時代の築城形式だが城主は不明。ただし建武元年(一三三四)三月一二日の北畠顕家国宣(新渡戸文書)にみえる「上柏木郷」を唐竹村に比定する説もある。 唐竹村からたけむら 埼玉県:飯能市唐竹村[現在地名]飯能市唐竹上直竹(かみなおたけ)村の北、入間(いるま)川の南岸に位置する。対岸と西は赤沢(あかざわ)村、東は原市場(はらいちば)村。加治(かじ)領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は畑方のみで九二石余、ほかに紙舟役永九四三文がある。幕府領。寛文八年(一六六八)に検地があった(風土記稿)。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領、ほかに白髭(しらひげ)神社明神領・阿弥陀堂領がある。「風土記稿」によると化政期には三卿の一の一橋領。家数三〇でうち七軒は古くから紙漉に従事。幕末の改革組合取調書でも一橋領。鎮守は白髭明神(現白鬚神社)。創建年代は不詳だが、同社には御正体(懸仏)四面が伝来、うち二面は貞和五年(一三四九)、一面は文和四年(一三五五)に藤原信綱が寄進した旨の銘がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by