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啖助 たんじょDàn Zhù

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世界大百科事典 第2版の解説

たんじょ【啖助 Dàn Zhù】

723?‐770?
中国,唐代の経学者。字は叔佐。関中(陝西省)出身。天宝(742‐755)の末,江南に客となっていたとき,安史の乱が勃発し郷里に帰ることができなくなったので,この地で仕官した。澗州丹陽県主簿を最後に官を退き,丹陽に居を定めた。平生,陋巷の狭い住居に安住し粗食に満足していたという。761年(上元2)ころから年来の《春秋》三伝の批判的研究を整理し始め,770年(大暦5),その業を卒(お)えたという。彼はそれまでの,《春秋》を《公羊(くよう)伝》《穀梁伝》《左氏伝》のいずれかによって解釈するという態度を改め,三伝の解釈を並列的に比較検討し,合理的な解釈が得られないときはみずから独自の解釈を下すという態度をとった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

啖助
たんじょ
(723―770)

中国、唐代の学者。字(あざな)は叔佐(しゅくさ)。趙(ちょう)州の人。天宝の末年、臨海尉(りんかいい)、丹陽(たんよう)県の主簿(しゅぼ)となる。任期が終わったのち、官職から退いて家にこもり、経学に専念した。とくに『春秋』の学を究め、左氏、公羊(くよう)、穀梁(こくりょう)の三家の短長を考え、その漏れ欠けたところを補って『春秋集伝』となし、またそのなかの大綱をとって『統例』とした。彼は左伝の解釈には誤りが多いとし、公・穀二伝を好んだ。高弟に趙匡(ちょうきょう)、陸質(りくしつ)(?―806、初名は淳(じゅん))がいる。著作は滅んで伝わらないが、陸質の『春秋集伝纂例(さんれい)』にうかがえる。[疋田啓佑]
『武内義雄著『中国思想史』(1936・岩波全書) ▽狩野直喜著『中国哲学史』(1953・岩波書店)』

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世界大百科事典内の啖助の言及

【趙匡】より

…河東(山西省)出身。770年(大暦5)宣歙池観察使の属官であったとき,東隣の浙西節度使管区の丹陽に啖助(たんじよ)を訪ね,経義,とくに《春秋》の解釈について意見を交わし,共鳴するところが多かったという。趙匡が啖助を訪問したのはこの一度だけだったようであるが,彼は啖助の没後,彼の子啖異躬と弟子の陸淳とから啖助の遺稿の補訂を求められ,啖助の研究の不十分な点を補っているが,趙匡の業績は要するに《春秋》三伝の批判的研究の根拠を確立したことにある。…

※「啖助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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