陝西省(読み)センセイショウ

デジタル大辞泉 「陝西省」の意味・読み・例文・類語

せんせい‐しょう〔‐シヤウ〕【陝西省】

陝西

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改訂新版 世界大百科事典 「陝西省」の意味・わかりやすい解説

陝西[省] (せんせい)
Shǎn xī shěng

中国の黄河中流域に位置する行政区画。戦国時代には秦の領域だったので別名を秦という。面積20万5603km2,人口3537万(2000)。省都は西安市にあり,3地区,7地級市,6県級市,84県を管轄する。

地形は南から北に向かって,次の山地平原,高原に3分される。(1)秦巴(しんは)山地 陝南山地ともいい,秦嶺山脈,大巴(だいは)山脈とこの両山脈の中間にはさまれた漢水の渓谷地帯を含む。秦嶺山脈は標高2000mを超え,黄河と長江揚子江)との分水嶺で,中国を南北に分ける地理上の重要な境界をなしている。主峰の太白山は3767m。秦嶺の北は顕著な断層をなし,断層線にそって有名な驪山(りざん)温泉をはじめ多くの温泉が分布しており,渭河(渭水)の南にそびえる華山は峻険な断崖に富んだ中国有数の名山である。大巴山脈は本省四川・湖北2省の間に連なり,漢中・四川両盆地を隔てている。(2)関中平原 渭河平原または関中盆地ともいい,東は潼関から西は宝鶏市まで,南は秦嶺の南麓から北は陝北高原に至る地域。断層陥没地帯に渭河とその支流の涇河(けいが),洛河等の沖積によって成立した平原で,古くから土壌の肥沃,農産物の豊富をもって知られ,本省の生産の中心をなす。(3)陝北高原 陝北盆地ともいい,鳳翔(ほうしよう)県,銅川市,韓城県を結んだ東西線以北で,黄土高原の中部に当たり,北西から南東に向かって傾斜している。標高平均800~1200m。大部分は厚い黄土層に覆われ,長い間の流水の浸食により複雑な地形を呈する。洛河沿岸の富(鄜)県から北はとくに浸食が激しく,水土の流失が強烈で,黄河はんらんの最大原因の一つとなっている。本省の河川は黄河,長江の二大水系に分かれ,秦嶺以南は長江流域に属して全省面積の1/3を占め,泥砂は少なく水量は季節による変化が少ない。また秦嶺以北は黄河流域に属して全省面積の2/3を占め,泥砂はとくに多く水量は季節によって著しく変化する。黄河は山西省とのあいだを縦貫し,途中に多くの峡谷を作っており,黄土高原を流れる無定河,延河,洛河,渭河等の支流が大量の泥砂を黄河に流しこむ。黄河最大の支流である渭河(渭水)は全長787km。漢水は長江最大の支流で全長1532km。本省の南西部に発源し湖北省武漢市に至って長江に流入する。

 気候は秦嶺山脈を境として大きな相違があり,南では最冷の1月でも平均気温は零度を下らず,最熱の7月は22~28℃に上がり,降水量は年平均750~1200mmに達する。北の関中平原では最冷の1月の平均気温は零下1℃から零下3℃,最熱の7月の平均気温は24℃以上,降水量は年平均550~700mmである。これに対して,陝北高原では1月の平均気温は零下3℃から零下10℃,7月の平均気温は22~24℃,降水量は年平均300~600mmにすぎない。しかも年間の降水の半分以上が7~9月の3月間に集中し,そのうえ豪雨が多いので水害が頻発し,逆に冬から春にかけては水不足に悩まされてきたのである。

渭河流域の関中平原は,中国でもっとも早く文化の開けたところの一つで,1963年に西安市東南の藍田(らんでん)県で旧石器時代初期に属する藍田原人が発見された。新石器時代になると仰韶(ぎようしよう)・竜山両文化が前後して広く分布し,なかでも西安市東方,仰韶文化の半坡(はんぱ)遺跡が有名である。殷代,渭河の下流域に起こった周は,殷を滅ぼして鎬京こうけい)(西安市南西)に都をおいたが,前8世紀に至り犬戎という未開民族に追われて東方の洛陽に移った(遷都以前を西周,以後を東周という)。そのあとに発展したのが秦で,春秋戦国時代を通じて領土を拡大し,ついに全国を統一したのである。秦に代わった漢(前漢)は秦の都咸陽かんよう)の南,渭河の南岸に新都を築いて長安と称し,天下の政治・経済・文化の中心としたが,経済の中心はしだいに東に移動し,1世紀の初め漢王朝がいったん中断して後漢が成立すると都は洛陽に定められた。秦は本省の地域を三分し,関中を内史といって中央の直轄,北部を上郡,南部を漢中郡とし,漢では秦の内史を京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう)(合わせて三輔(さんぽ)という)に分けて司隷校尉(しれいこうい)の所轄とし,北部は上郡・西河・朔方の3郡として幷州(へいしゆう)に,南部を漢中と武都の2郡として梁州に所属させた。三国時代には関中は雍州に属し,南部の東半とともに魏の領土となり,西半は蜀の領土に入ったが,北部は匈奴(きようど)に占拠されて中国の支配から離れたのである。その後の分裂時代を経て隋が天下を統一すると,今日の西安市の位置に大長安城を作り国都として京兆府(けいちようふ)と称し,本省内には11郡を設けた。唐はこれを受けて都城を完成するとともに,本省の中部から北部を関内道とし,南部を山南道に所属させた。唐代の長安は東西文明の交流地であり,東アジア最大の都市として繁栄をきわめたが,唐の滅亡後は二度と国都となる機会はなく,中国本土北西部の重要都市として残ったに過ぎない。

 宋(北宋)では長安に陝西路(のち永興軍路と秦鳳(しんほう)路とに分けた)をおいて秦嶺山脈以北を管轄させ,秦嶺以南は利州路と京西南路とに分属させた。これが陝西の名の始まりで,陝州(河南省陝県)から西の地域という意味である。しかし,北部はチベット系タングート(党項)の立てた西夏と隣接し,宋にとってはその侵入を防御する第一線であった。女真族の金が華北を占有すると,関中に京兆路と鳳翔路を,北部には鄜延(ふえん)路をおいたが,南部は南宋の領土で利州路に所属した。元では初め陝西四川行中書省をおいて,今日の陝西省,四川省,寧夏回族自治区の南部,甘粛省の南東部,青海省の東部および内モンゴル自治区の河套(かとう)地区を含む広大な地域を管轄させた。のち陝西等処行中書省(略して陝西行省という)と改め,管轄範囲を今日の陝西全省と,甘粛省,寧夏回族自治区に属する黄河以南の地域に縮小し,別に甘粛等処行中書省を分置した。明では陝西等処承宣布政使司(普通には陝西省と称した)をおき,甘粛行省を廃してこれに合併したが,清に至り1666年(康熙5),西部を甘粛省として独立させたので,今日の陝西省の規模ができあがり中華民国に及んだ。1935年毛沢東に率いられた紅軍が長征ののち,延安にソビエト中央政府西北辦事処を設け,すでにあった陝北・陝甘辺の両ソビエト政府を合併した。37年には陝甘寧辺区を編成し,解放戦争を経て50年に陝西省人民政府が成立したのである。

本省は古くから水利灌漑の発達したところだが,耕地面積は全省の約1/5,水田はその25%である。したがって,穀物は小麦が第一で,全省の穀物産出量の2/5を占め,米,トウモロコシ,アワ,莜麦(ユーマイ)(ソバの一種)がこれに次ぐ。その他の主要農産物としては綿花,アブラナ,ゴマなどがある。農業の地域差は著しく,南部は亜熱帯に属するので,稲作面積は全省の80%以上にのぼり,主として漢中盆地の漢水流域に広がっている。トウモロコシは広く山地帯に栽培され,その他に漢中盆地のアブラナ,柑橘類,南部の安康地区の絹,カラムシ,紫陽の茶などが有名。灌漑がもっとも発達しているのは関中平原で,とくに小麦の産出量は全省の70%,綿花は90%以上を占め,全国有数の小麦と綿花地帯の一つである。北部は農業・牧畜の混在地域で,アワ,莜麦のほかゴマ,タバコ,テンサイなども栽培され,家畜では羊がもっとも多い。本省でとくに重視されているのは水利建設であって,灌漑面積の増大とともに,水土の流失を防ぐため水土保護政策として,造林や段々畑(梯田(ていでん))の造成が積極的に進められ,また万里の長城沿いの砂漠地帯では防風林の育成も行われている。

 鉱産物は石油が古くから知られているが産額は少なく,石炭が豊富で,主として北部と渭河の北岸一帯に分布し,なかでも銅川炭鉱が有名である。その他,鉄,銅,マンガン,ボーキサイト,モリブデンなど種類は多いが,開発は遅れている。重工業は解放以前はまったくみられず,軽工業も未発達で,省内で産出される綿花も大部分が上海その他の紡織工場へ送られ,製品となって再びもどってくるという状態であった。ただ石炭,石油,白酒(焼酎の一種),マッチ,製粉などがきわめて小規模に行われるにすぎなかったが,近年では鋼鉄,機械,セメント,化学肥料,製紙,紡績,織物等の工業が新しく興った。また自動車,トラクター製造なども始まって,中国の新工業基地の一つとなり,西安,咸陽,宝鶏,銅川の諸市は重要な工業中心として発展している。

解放以前,省内の鉄道はただ隴海(ろうかい)鉄道(東端は江蘇省連雲港市)が宝鶏市まで通じていただけであったが,今日では西に延びて甘粛省の蘭州に至り,内モンゴル自治区や青海省への鉄道と連絡している。宝鶏市から四川省成都市に通ずる宝成鉄道は1956年に完成したもので,古くから交通を阻害した多くの難所を乗り越え,成都に達して雲南省への鉄道と連絡し,西北地区と西南地区とを結ぶ重要幹線となっている。隴海鉄道の支線としては,咸陽から閻良(えんりよう)を経由して銅川市に至る咸銅鉄道,閻良から分かれて北東の韓城方面に至る侯西線などがある。南の長江方面では,武漢からきて本省南部を通過し四川省に入る襄渝鉄道(湖北省襄樊~四川省重慶)と,その中間の安康と宝成鉄道の陽平関とを結ぶ陽安鉄道とがある。自動車道路も西安市を中心として整備され,省内の70%以上の人民公社まで自動車が通じるようになった。

 西安市は省政府の所在地で,関中盆地の中心,渭河の南岸に位置する西北地区での最大都市。西周・秦・前漢・隋・唐歴代の国都として長安といい,唐代にはもっとも繁栄した。かつては政治,軍事を主とする消費都市であったが,今日では機械,紡績,織物などの工業が盛んである。旧市内には大雁塔,小雁塔,碑林,鐘楼,鼓楼など,周辺地区には華清池,秦始皇帝陵,前漢の諸帝陵(とくに武帝の茂陵),霍去病(かくきよへい)墓,唐の諸帝陵(とくに高宗の乾陵(けんりよう)),章懐太子や永泰公主の墓など名勝古跡が多い。延安市は陝北高原の延河南岸に位置し,1937-47年にかけての中国共産党中央委員会の所在地で,革命聖地といわれ,付近には関係の遺跡が散在し,陝北における経済・文化・交通の中心となっている。咸陽市は西安市の北西,渭河の北岸に位置し,隴海・咸銅両鉄道の交点で,綿・毛紡績・織物工業の中心である。宝鶏市は関中平原の西端に近く渭河の北岸にあり,隴海・宝成両鉄道の交点で,関中平原西部の綿花・食糧,陝西・甘粛・四川3省との物資集散地として重要。さらに機械,紡績,織物,製粉,巻煙草,製紙等を主とした本省工業の一中心をなしている。漢中市は秦嶺山脈の南側,漢中盆地の中央,漢水の北岸に位置する陝西省南部最大の都市である。小麦,アブラナ,トウモロコシをはじめとする南部物産の集散地で,食品工業が発達している。銅川市は咸銅鉄道の終点で,関中盆地の北端に近い鉱業都市。石炭,陶磁器,セメント,機械等の工業が盛んである。その南方5kmの黄堡鎮(こうほちん)は,かつて北方青磁といわれた耀州窯(ようしゆうよう)の遺跡として近年有名になった。その他,東の省境に近く秦嶺の南にそびえる西岳(五岳の一つ)華山を始め,宝鶏市の北西にある,三国時代,蜀の諸葛孔明の陣地として有名な岐山(きざん)県の五丈原,東の省境,韓城県の司馬遷の墓,漢中市の東,城固県の張騫(ちようけん)の墓など,名勝古跡はすこぶる多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陝西省」の意味・わかりやすい解説

陝西〔省〕
せんせい

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