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趙匡 ちょうきょうZhao Kuang

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

趙匡
ちょうきょう
Zhao Kuang

中国,唐の経学者。河東 (山西省) の人。字は伯循。陸淳とともに啖助 (たんじょ) に学び,啖助の学風を受けて,ともに『春秋』に対する従来の三伝墨守の風に批判的で,新たな解釈を打出した。特に趙匡の『左氏伝』批判が鋭い。その説は陸淳著『春秋集伝纂例』『春秋集伝弁疑』などにみえる。その批判的態度は代の経書に対する新義の樹立の先駆とされている。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうきょう【趙匡 Zhào Kuāng】

中国,唐代の経学者。生没年不詳。字は伯循。河東(山西省)出身。770年(大暦5)宣歙池観察使の属官であったとき,東隣の浙西節度使管区の丹陽に啖助(たんじよ)を訪ね,経義,とくに《春秋》の解釈について意見を交わし,共鳴するところが多かったという。趙匡が啖助を訪問したのはこの一度だけだったようであるが,彼は啖助の没後,彼の子啖異躬と弟子の陸淳とから啖助の遺稿の補訂を求められ,啖助の研究の不十分な点を補っているが,趙匡の業績は要するに《春秋》三伝の批判的研究の根拠を確立したことにある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

趙匡
ちょうきょう

生没年不詳。中国、唐代の学者。字(あざな)は伯循(はくじゅん)。官は洋州刺史を歴任。啖助(たんじょ)に師事して春秋を学ぶ。師の死後、同門の陸質(りくしつ)(?―806、初名は淳(じゅん))が師の遺子の趙異と師の著『春秋集註(しっちゅう)総例』を編集し、趙匡はこれに増補、削改した。のち陸質はこれを『春秋集伝纂例(さんれい)』として完成した。趙匡は師啖助の考えをさらに進め、左伝の左氏を左丘明(きゅうめい)でないとするように、孔穎達(くようだつ)らが勅を奉じて完成した『五経正義』に異議を唱え、自説を掲げたその学風が宋儒(そうじゅ)にも影響を与えた。[疋田啓佑]
『狩野直喜著『中国哲学史』(1953・岩波書店) ▽武内義雄著『中国思想史』(1953・岩波全書)』

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