四方町
よかたまち
[現在地名]富山市四方・四方一番町・四方恵比須町・四方新出町・四方神明町・四方田町・四方二番町・四方港町・四方野割町
富山湾に面し、東は西岩瀬町、西は打出村。婦負郡に属し、江戸時代初期、加賀藩主の往還に使われた浜往来が通る。延徳三年(一四九一)三月一四日、冷泉為広は打出から「ヨカタ里」を経て岩瀬渡に至った(越後下向日記)。元和三年(一六一七)頃から漁村として開発が進んだといわれる(四方町沿革誌)。漁猟を中心にしながら、富山藩の大坂廻米の積出港四方湊(和合浦とも)をひかえ、嘉永年間(一八四八―五四)からは能登、蝦夷松前(現北海道松前町)との交易基地ともなった。町場化が進み、元文四年(一七三九)に町並とされ、村肝煎の一人覚左衛門が町肝煎に任ぜられた。同年九月には宿方とされた(「御郡役所旧記」栗山家文書など)、富山藩三宿の一。
〔四方村〕
郷帳類には四方村とみえる。牛ヶ首用水によって開発が進み、寛永一〇年(一六三三)の在々水割帳(牛ヶ首用水土地改良区蔵)に村名、同年の用水管理約定書(同改良区蔵)には村肝煎覚左衛門の名がみえる。同一六年以降富山藩領で、正保郷帳では高三二六石余、田方三町余・畑方一八町七反余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では高二七六石余、享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高四八七石余。文化年間(一八〇四―一八)の古高四四八石余・新田高七石余(「村々高免小物成銀等書上」高堂家文書)。神通川の氾濫や富山湾の寄回り波によって村高が減少する時期があった。文久元年(一八六一)以降宮川組に属した。享保一九年(一七三四)の四方大火の記録によると、火元は頭振与三次郎方で、百姓四二軒全部二五七人や、頭振二八五軒のうち二五四軒・一千一四六人などが焼出された(「御郡方御用留」前田家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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