園部村(読み)そのべむら

日本歴史地名大系 「園部村」の解説

園部村
そのべむら

[現在地名]基山町大字園部

現基山町の西部地域で、秋光あきみつ川・山下やました川上流の平野に耕地が開け、九千部くせんぶ山の余脈の山地・丘陵の麓や山間に多くの小名集落が立地する。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「薗部庄」とみえる。山麓丘陵には多くの古墳があり、園部谷平野には条里制遺称地の三十六さんじゆうろくの坪名があって、この地域が早くから開発されていたことがわかる。薗部庄はその規模が「八十六丁七反」というほかは、成立年・四至・領主等は不詳。

村は小早川領時代の文禄四年(一五九五)検地(玄蕃竿)が行われ、高一千一八四石余となる。慶長四年(一五九九)対馬の宗義智に薩摩国出水郡内の所領の替地が基肄養父やぶ両郡の内にて宛行われたが、園部村が含まれていたかはわからない。同一〇年園部村一千石は幕府の命によって対馬藩老臣柳川智永に与えられ、柳川氏は代官を派遣して支配した。同一四年またもや検地(古藤竿)が行われ一二九町余、高一千五六五石余となった(慶長十四年肥前国基肄郡園部村検地帳)

寛永三年(一六二六)柳川調興は園部村の私領化を企て、幼少の藩主宗義成との間に争いが起き、ついに両方から幕府に提訴するに至った。

園部村
そのべむら

[現在地名]園部町美園町みそのまち栄町さかえまち

京街道に沿い、北は園部城下、東から南にかけては小山おやま村、西から南はおお村と下横田しもよこた村。東に天神てんじん山、西に小向こむき山があるが、中央は平坦で耕地と集落が展開する。園部藩領。

「親元日記別録」政所賦銘引付の文明一一年(一四七九)一一月一三日条に

<資料は省略されています>

とあり、園部村はこの頃、おそらく石泉院領であったと思われる。

また永禄一二年(一五六九)の天満宮文書(生身天満宮蔵)には次のようにある。

<資料は省略されています>

元和五年(一六一九)園部城主として小出氏が当地に入部、当村内に城下町を形成した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報