坪野哲久(読み)ツボノ テツキュウ

20世紀日本人名事典 「坪野哲久」の解説

坪野 哲久
ツボノ テツキュウ

大正・昭和期の歌人



生年
明治39(1906)年9月1日

没年
昭和63(1988)年11月9日

出生地
石川県羽咋郡高浜町(現・志賀町)

本名
坪野 久作(ツボノ キュウサク)

学歴〔年〕
東洋大学〔昭和4年〕卒

主な受賞名〔年〕
読売文学賞(第23回)〔昭和46年〕「碧巌

経歴
大正14年東洋大学在学中に島木赤彦師事し「アララギ」に入会。赤彦没後は「ポトナム」に参加。昭和3年新興歌人連盟に加わる。のち11年山田あき等と「鍛冶創刊。17年検挙される。戦後、39年「航海者」と改題、53年「氷河」主宰歌集に「一樹」「百花」「桜」「北の人」「碧巌」「胡蝶夢」「人間旦暮」「坪野哲久全歌集」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「坪野哲久」の意味・わかりやすい解説

坪野哲久
つぼのてつきゅう
(1906―1988)

歌人。石川県生まれ。本名久作。東洋大学卒業。島木赤彦(しまきあかひこ)に師事。『ポトナム』同人を経て「無産者歌人連盟」「プロレタリア歌人同盟」などで渡辺順三(じゅんぞう)らとともにプロレタリア短歌運動を展開した。口語短歌の処女歌集『九月一日』(1930)は発売禁止となる。異色合同歌集『新風(しんぷう)十人』(1940)をはじめ『桜』(1940)、『北の人』(1958)、『碧巌(へきがん)』(1971。読売文学賞受賞)、『胡蝶夢(こちょうむ)』(1974)などの歌集があり、歌書に『昭和秀歌』『万葉秀歌』がある。

 まわれよまわれぶんぶんぐるま糸車まずしき能登(のと)のおんなのいのち
岩田 正]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坪野哲久」の解説

坪野哲久 つぼの-てつきゅう

1906-1988 大正-昭和時代の歌人。
明治39年9月1日生まれ。山田あきの夫。島木赤彦に師事。アララギ派からプロレタリア系歌人となり,第1歌集「九月一日」は発禁となる。昭和15年合著歌集「新風十人」に参加。戦後は渡辺順三らと「人民短歌」を創刊。昭和63年11月9日死去。82歳。石川県出身。東洋大卒。本名は久作。歌集はほかに「百花」「北の人」「碧巌」など。
【格言など】われの一生(ひとよ)に殺(せつ)なく盗なくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は(「碧巌」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「坪野哲久」の解説

坪野 哲久 (つぼの てつきゅう)

生年月日:1909年6月1日
大正時代;昭和時代の歌人。「氷河」主宰
1988年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

ドクターイエロー

《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...

ドクターイエローの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android