埴安池(読み)はにやすのいけ

日本歴史地名大系 「埴安池」の解説

埴安池
はにやすのいけ

天香久あめのかぐ山付近にあった池であるが、今日その名を残しておらず、池の位置や広さは明らかでない。「万葉集」巻一の「藤原宮の御井の歌」に、

<資料は省略されています>

とみえ、また巻二の「高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌」には、

<資料は省略されています>

と詠まれている。現在、南浦みなみうら町字出屋敷でやしきの民家の南上方にある池がその跡といわれているが、この池については、本居宣長が「菅笠日記」のなかで「坂道にかかりて左のかたに。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「埴安池」の意味・わかりやすい解説

埴安池 (はにやすのいけ)

大和の天香久山の西麓にあった池。《万葉集》にみえる,柿本人麻呂が高市皇子の死に際して作った挽歌に〈埴安の池の堤〉とあり,〈藤原宮の御井の歌〉にも〈埴安の堤〉が歌われている。神武紀や崇神紀にみえる伝承によれば,古代には,天香久山の埴(はに)を,〈倭国の物実(ものしろ)〉(大和国支配のシンボル)とみなす観念があった。この天香久山の埴土を男神化して祭祀するのが,畝尾坐健土安(うねおにいますたけはにやす)神社(延喜式内大社)であり,天香久山の西麓(橿原市木之本町)に所在する。この畝尾坐健土安神社周辺の微地形を観察すると,かつての埴安池の範囲を想定することが可能である。想定できる埴安池は,天香久山の西麓に南北に細長く伸びる池であり,《万葉集》の舒明天皇の国見歌で〈海原〉と表現されているのとはかなり違う。埴安池の池水は,飛鳥川の支流タケチ河(14世紀初頭ころまでは確実に存在していた)の水を取り入れており,〈こもり沼〉と表現されるごとく,持統朝の末ころには沼状であったらしい。《日本書紀》斉明2年条にみえる狂心渠(たぶれごころのみぞ)も,タケチ河と埴安池を意味しているかもしれない。
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