堅志田城跡(読み)かたしだじようあと

日本歴史地名大系 「堅志田城跡」の解説

堅志田城跡
かたしだじようあと

[現在地名]中央町中郡

赤蜂尾かだお城・勢多尾せたお城あるいは瀬戸せと城ともいう。神園こうぞのから原田はらだへ至る瀬戸山越の道路筋にあり、字城山しろやまという標高二五六メートル、集落からの比高一六〇メートルの山上に遺構がある。山頂は狭いながら平坦地で、その西端部寄りに土塁状の高台がある。尾根筋には堀切が認められ、「一の堀」「二の堀」の呼称が残る。城跡の南北の麓には、熊取くまとりおよびかこい集落がある。栫には大手おおて下古道しもふるみち・上古道という字名がみられる。「八代日記」大永三年(一五二三)四月三日条に「勢多尾城取」とあり、旧大宮司阿蘇惟長の子惟前が当城を得ている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「堅志田城跡」の解説

かたしだじょうあと【堅志田城跡】


熊本県下益城(しもましき)郡美里町堅志田にある城跡。県中央部を流れる緑川中流左岸の標高256mの城山と呼ばれる山尾根筋に所在する。阿蘇大宮司職を世襲する阿蘇氏は、矢部館を本拠にして肥後国阿蘇郡・益城郡一帯を支配していたが、その勢力圏の西南部に位置する堅志田城は、肥後国の中央部に近く、戦略上の重要な地点にあった。発掘調査などの結果、西方から東北方の栫(かこい)集落へ向かって円弧状に延びる約400mの主軸尾根と、主軸尾根の西部から南方熊取集落へ向かって延びる約300mの派生尾根上に、11ヵ所の郭(くるわ)、15ヵ所の堀切りや畝堀(うねぼり)などを有する大規模な城跡であることが判明。中国産陶磁器など多くの遺物も発見された。この城跡は中世肥後国を代表する大規模な城跡の一つであり、阿蘇氏の内部抗争、島津氏との攻防が繰り広げられた舞台として知られ、中世肥後の政治状況を知るうえで重要であることなどから、2006年(平成18)に国の史跡に指定された。JR鹿児島本線松橋(まつばせ)駅から産交バス「神園(こうぞの)」下車、徒歩約1時間。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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