塩田庄
しおだのしよう
荘域は上田市の南西、通称塩田平全域。南に独鈷山塊、西に夫神岳・女神岳、東に東山、北に横山丘陵に囲まれた東西二キロ、南北一キロにわたる平坦部に立地し、産川・湯川・尾根川などの千曲川支流が北東へ流れる。
塩田庄の初見は「吉記」承安四年(一一七四)八月一六日条の「別当申信濃国塩田郷年貢、可進千段事、仰、可進寄文」である。その頃の範囲は必ずしも明確とはいいがたいが、塩田平のほぼ全域にわたることは疑いない。
建武二年(一三三五)足利氏が村上信貞に「塩田庄十二郷」を与えたと記され(太平記)、天正六年(一五七八)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)に「三之御柱 小県郡拾二郷」として西松本・東松本・手塚・別所・魔山・五家(加)・柳沢・小島・中野の各郷と下之郷・本郷が列記されているのをみれば、この一二郷は、塩田平のうちのこれらの一二集落であったと推定される(ただし一一郷しかないのは、山田郷が抜けているからである)。
塩田庄
しおたのしよう
現津名町南東部一帯に比定される山城国勧修寺(現京都市山科区)領の庄園。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に勧修寺御領として塩田庄がみえ、田四〇町、畠、浦一所で構成される。地頭は当初国御家人の刑部丞範能であったが、承久の乱後幕府に没収され、宇治合戦で功のあった関東御家人藤田兵衛尉が地頭となった(「吾妻鏡」承久三年六月一八日条)。
塩田庄
しおたのしよう
近世の塩田村一帯を庄域としたとみられる山城石清水八幡宮領。摂津国有馬郡のうち。鎌倉期の石清水八幡宮文書目録(石清水文書)に「一通 保元々年十二月、小谷・塩田(中略)玄清早可弁済年貢之由宣旨」とあり、保元元年(一一五六)年貢納入を命じる宣旨が出されたようである。保元三年一二月三日の官宣旨(同文書)に石清水八幡宮寺領として摂津国塩田庄がみえ、他の宮寺領・極楽寺領とともに同宮別当院主の支配を認め「私之処分」が停止されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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