青柳河岸(読み)あおやぎがし

日本歴史地名大系 「青柳河岸」の解説

青柳河岸
あおやぎがし

[現在地名]増穂町青柳町

富士川舟運における甲州三河岸の一つ。富士川の右岸にあり、鰍沢かじかざわ河岸・黒沢くろさわ河岸(現鰍沢町)よりも上流に位置する。現在は明治末期の耕地整理によってその遺構は失われているが、旧駿州往還の両側に形成された青柳町の家並を東側の富士川に向かう舟場道をたどり、富士川の堤防にぶつかった辺りが青柳河岸であった。明治三六年(一九〇三)史料によると、上河原かみがわら内河原うちがわら外河原そとがわらの三つの字の境目に寄洲に向かう二本の道があり、その道と堤防に囲まれた場所が荷揚場で、広さは一反九畝余、字外河原とある(「官有地払下願」小河内為信家文書)。富士川の東西両岸に向合うように位置する鰍沢黒沢の両河岸に比べ、その上流にある青柳河岸は成立が遅れたとの見解もある。文化三年(一八〇六)に三河岸が御廻米見廻役人中に差上げた書付(原田公房家文書)によると、他の二つの河岸が慶長一二年(一六〇七)の通船を記しているのに対し、青柳河岸は同一四年通船とある。


青柳河岸
あおやぎかし

[現在地名]市原市青柳

江戸湾に面して置かれた湊。年貢米の津出湊で、青柳村浦(享保六年「町田村明細帳」千葉家文書)などとみえる。寛政九年(一七九七)当時は五大力船四艘で、地引網運上永二貫文を納入、天保一四年(一八四三)には同船一艘で、船役永一貫文を納めていた(慶応大学蔵文書)。文政一二年(一八二九)江戸大火後の復旧で瓦の需要が増大、五大力船では賄いきれなかったらしく、当村の押送船が瓦一連を運漕したところ五大力船持から支障の申立てがあり、同船持仲間の取決めに従うことなどを約束している(同文書)。弘化四年(一八四七)青柳の船主が佐貫藩の廻米一〇俵、幕府領の渡米一三九俵のほか三河西大平藩領と旗本酒井氏の年貢米を五大力船に積込んだが強風出航を見合せていたところ、大風雨のため積直しをしたため他領米が混じるなど荷に混乱が生じ、その処理方に困惑している(同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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