田楽新座の役者。生没年不詳。世阿弥とほぼ同世代で(やや年少か),喜阿弥の後継者であった。名は芸名に基づく阿弥陀仏号の略称。1414年(応永21)8月成立の《竹生島縁起》の勧進者23名の一人としてその名が見える。《申楽談儀》での世阿弥の評価は能,音曲ともに〈閑花風(かんかふう)〉(九位の第3位)に位置づけ,少年時代に足利義満の前で獅子を舞ったのが〈面白カリシ〉とか,東北院(興福寺の院家)の立合(たちあい)での扇扱いを〈感涙も流るゝ斗(ばかり)に覚ゆ〉とか,《尺八の能》では〈冷えに冷えたり〉の表現で絶賛している。芸域の広い演者であった。《仮面譜》で〈六作〉の中に〈増阿弥久次〉の名を挙げ,能面に〈増(ぞう)〉の名のつくものもあるが,増阿弥とかかわりがあるか確定できない。《体源鈔》や心敬の《ひとり言》によれば,豊原量秋の弟子で尺八の名人でもあった。他に〈扇落しの手(型)〉や,橋掛りで舞うなどを試みている。応永20年代を全盛として,足利義持の寵を得,勧進田楽をしばしば演じている。また,世阿弥の能に対して何度か批評を加えているように,互いに良きライバルであった。
執筆者:関屋 俊彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年不詳。室町前期の田楽新座(でんがくしんざ)(奈良に本拠を置いた座)の役者。同座の喜阿弥(きあみ)の後継者で、大和猿楽(やまとさるがく)の世阿弥(ぜあみ)と同時代の名手。ことに4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の後援を受け、応永(おうえい)20年代(1413~22)には再々勧進田楽を興行するなど京都・奈良で活躍した。世阿弥の『申楽談儀(さるがくだんぎ)』によれば、演技と音曲(おんぎょく)とがみごとに調和した、技巧を弄(ろう)さない味わい深い冴(さ)えた芸風であったらしい。田楽以外にも多芸多才で、尺八の吹奏に優れ、今日に伝わる能面「増女(ぞうおんな)」はその創作になるという。
[小林 責]
(石井倫子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…なかでも大和猿楽の四座,近江猿楽六座が名高く,ことに大和の結崎(ゆうざき)座の観阿弥・世阿弥父子によって今日の能の基礎が固められるのである。
[猿楽の役者]
当時の有名な役者たちを挙げると,〈田楽〉の一忠・花夜叉・喜阿弥・高法師(松夜叉)・増阿弥(〈田楽〉も猿楽とさして距離をおかぬものであって,世阿弥伝書にも総合的に論じられている),近江猿楽の犬王(いぬおう),大和猿楽の金春権守(こんぱるごんのかみ)・金剛権守などである。喜阿弥は音曲(謡)の名手,閑寂な能を演じ,世阿弥が少年時代に瞠目(どうもく)して観覧し,のちのちの語りぐさにしたという。…
…義満の後嗣足利義持は,父義満の方針を改めること多く,芸能後援についても尊氏時代に戻して田楽を重んじた。とくに新座の増阿弥(ぞうあみ)を後援し,応永20年代(1413‐22)には毎年増阿弥に勧進田楽を興行させている。しかし世阿弥も幕府内で重用されており,義持が世阿弥を疎んじたという説には根拠がない。…
※「増阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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