世阿弥(読み)ゼアミ

デジタル大辞泉 「世阿弥」の意味・読み・例文・類語

ぜあみ【世阿弥/是阿弥】

[1363?~1443?]室町前期の能役者・能作者。観阿弥の長男で、2代目の観世大夫。本名、観世元清。通称三郎。足利義満の後援を得て、能楽を大成した。「風姿花伝」「花鏡」「至花道」ほか20余部の伝書は、日本の芸術論を代表する。能の作品に「高砂」「老松おいまつ」「清経」「井筒」「」「班女はんじょ」「とおる」など多数。

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改訂新版 世界大百科事典 「世阿弥」の意味・わかりやすい解説

世阿弥 (ぜあみ)
生没年:1363?-1443?(正平18?・貞治2?-嘉吉3?)

室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。幼名藤若(ふじわか)(前名鬼夜叉(おにやしや)とも)。通称三郎,実名元清。秦氏を称し,父の芸名だった〈観世〉が姓同様に通用しはじめ,世人は観世三郎とも呼んだ。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿,世阿弥はその略称。現今は世阿弥と呼ぶことが多い。セアミと清んで呼ぶのは誤り。老後の法名が至翁(道号)善芳(法諱)。弟に四郎がいた。

南北朝の争乱が下火になり,室町幕府の基礎が固まりかけたころに世阿弥は生まれた。父の観阿弥は30歳を超えた年盛りで,すでに大和猿楽(やまとさるがく)結崎(ゆうざき)座のスター役者だったと推定される。数多い田楽(でんがく)や猿楽の能役者が芸を競う中から,観阿弥が抜け出る要因となった音曲改革に取り組んだのは世阿弥の幼年期であり,京洛に観阿弥の名声を高めた醍醐寺での猿楽(年不明)には子の世阿弥も出演していた。世阿弥が12歳の年(1375年の永和1年か前年の応安7年)に,観阿弥が洛東今熊野で催した猿楽能を将軍足利義満が見物し,以来彼は観世父子に絶大な庇護を加える。世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。義満の世阿弥寵愛は尋常でなく,彼の勘気にふれて東国を流浪していた連歌師琳阿弥は,世阿弥に自作の謡(うたい)を義満の御前で謡ってもらって勘気を許されている。足利武将らも将軍の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたし,北朝公家の代表格の二条良基も13歳の世阿弥に〈藤若〉の名を与え,自邸の連歌会に藤若を加えてその句を激賞したりしている。良基の文章によれば,世阿弥は稀代の美少年で,能芸に秀でるのみならず,13歳の時すでに鞠(まり)や連歌に堪能だったという。父観阿弥が子を貴人の賞玩向きに教育したものと考えられる。

 1384年(元中/至徳1)に父が没し,まだ初心段階の世阿弥が観世大夫(結崎座の演能グループたる観世座の統率者)を継いだ。美童としての魅力はすでに失せ,田楽新座の喜阿弥近江猿楽比叡座の犬王(いぬおう)らの競争相手も父の在世期から台頭しており,新大夫の前途は多難だったろうが,世阿弥は精進を重ねて苦境をのりこえたようで(当時の記録は皆無に近い),99年(応永6)には京都一条竹ヶ鼻で3日間の勧進猿楽(勧進能)を催し,将軍の台臨を得て,天下の名声を獲得した。翌年に《風姿花伝》の第三までを書いたのは,彼の自信の表明でもあったろう。芸名の世阿弥陀仏を称したのはその直後の40歳ころかららしく,セアではなくゼアと濁ったのは義満の裁定に基づく。そうした世阿弥の地位を揺るがせたのが犬王である。彼は観阿弥とほぼ同世代で,応永(1394-1428)以前から義満に後援されていたが一時失脚し,1401年ころに復活して世阿弥以上に義満に評価された。義満の法名道義の1字をもらって犬阿弥から道阿弥に改称することを許されたし,08年の後小松天皇北山第(義満別邸)行幸の際も,世阿弥ではなくて犬王の芸が天覧に供されている。歌舞に秀で,幽玄(優美)で情趣あふれる能を得意とした彼の芸風が,公家化の傾向を強めていた晩年の義満の意にかなったのであろう。このような犬王の出世は世阿弥に大きな影響を与えた。大和猿楽の伝統たる物まね主体の〈面白き能〉から,歌舞中心の〈美しき能〉への方向転換がそれで,犬王の長所を参照した能の歌舞劇化の成功が,世阿弥の名声を保ち,その後の能の質的向上をももたらしたように思われる。

 1408年5月,北山第行幸直後に義満が急逝し,世阿弥はよき後援者・批判者を失った。義満の後嗣足利義持は,父義満の方針を改めること多く,芸能後援についても尊氏時代に戻して田楽を重んじた。とくに新座の増阿弥(ぞうあみ)を後援し,応永20年代(1413-22)には毎年増阿弥に勧進田楽を興行させている。しかし世阿弥も幕府内で重用されており,義持が世阿弥を疎んじたという説には根拠がない。義満以上に高かった義持の鑑賞眼にかなうための世阿弥の努力が,増阿弥の長所を採り入れたらしい冷えたる能への深化を生み,世阿弥の芸風や芸論を充実させてもいる。猿楽能の第一人者としての世阿弥の地位は不動であったろう。1422年ころ60歳前後で世阿弥は出家し,観世大夫の地位を子の観世元雅に譲った。引退したわけではなく,出家後も能を演じ,元雅や次男の七郎元能や甥の三郎元重(のちの音阿弥)らの教導にも熱心だった。子弟の成長で観世座は発展の一途をたどり,彼自身の芸も円熟の境に達し,出家前後が世阿弥の絶頂期であったろう。応永27年(1420)の《至花道》,30年の《三道》,31年の《花鏡(かきよう)》など,高度な能楽論が続々と書かれたし,彼が多くの能を創作したのも出家前後が中心らしい。

 だが,1428年(応永35)に義持が没し,還俗した弟の義教が将軍になってから,観世父子に意外な悲運が訪れた。義教は青蓮院門跡時代から世阿弥の甥の三郎元重を後援していたが,将軍になってからはいっそう元重を引き立て,本家筋たる世阿弥父子には露骨な圧迫を加えた。29年(永享1)の仙洞御所での能の阻止,翌年の醍醐寺清滝宮の楽頭職剝奪などがそれで,世阿弥が一時は元重を養子にしたらしいのに,元雅に観世大夫を譲ったことが義教の反感の一因になったのかもしれない。義教の弾圧下にも,女婿金春禅竹(こんぱるぜんちく)のため《拾玉得花(しゆうぎよくとつか)》を著述し,《習道書(しゆどうしよ)》を書いて一座の結束をはかるなど,世阿弥の意欲は衰えなかったが,1430年には元能が父の芸談を《申楽談儀(さるがくだんぎ)》にまとめて遁世し,32年8月には元雅が伊勢で客死し,観世座の本流は断絶してしまった。老後に後嗣を失った嘆きは《夢跡一紙(むせきいつし)》に痛ましく,翌年成立の《却来華(きやくらいか)》は相伝者のいないまま後代への形見として書かれている。33年に元重が観世大夫となったが,その大夫継承をめぐって将軍の怒りに触れたのか,世阿弥は翌年老残の身を佐渡へ流された。在島中の小謡曲舞(こうたいくせまい)集《金島書》によって1436年(永享8)2月に健在だったことは知られるが,帰洛したか否かは明らかでない。世阿弥夫妻が帰依した曹洞宗補巌寺(ふがんじ)(奈良県田原本町)に彼の忌日(8月8日)が記録されているが,没年は不明で,81歳没との伝承が残るのみである。不遇のうちに世阿弥は波乱多き出涯を閉じたらしい。

能役者としての世阿弥は,先人や好敵手(父観阿弥,犬王,喜阿弥,増阿弥ら)の長所を積極的に採り入れ,将軍に代表される観客の好みの変化に応じて芸風を発展させた,融通性に富む芸人だった。中世人には稀な合理的精神・独創性の持ち主だったことが,自筆文書の書き様(濁点・読点・分かち書の採用,片仮名による能本の表音表記など)からも知られる。そうした資質や父が用意した天才教育で身につけた教養を背景に,父が基礎を固めた物まね主体の猿楽能を,歌舞主体の美しき能(幽玄能)へと洗練し,能の芸術性を著しく高めたのが世阿弥であった。小男だったと伝えられるが,能の大成者としての功績はまことに大きく,後代に残る業績としては,能作の仕事と能楽論書著述の仕事が挙げられる。

 世阿弥は能の台本たる謡曲の作者として卓越していた。能を作ることが道の命であると主張した彼は,多くの曲を新作し,また古曲を改作した。彼の手に成ることが文献的に確認できる曲だけでも改作を含めれば50曲に近く,他に作品分析から世阿弥作と認められる曲も多い。《高砂》《弓八幡》《老松》《養老》《忠度》《敦盛》《頼政》《実盛》《清経》《井筒》《江口》《檜垣》《西行桜》《班女》《桜川》《花筐(はながたみ)》《蘆刈》《春栄(しゆんねい)》《錦木》《(きぬた)》《恋重荷(こいのおもに)》《蟻通(ありどおし)》《(とおる)》《野守(のもり)》《(ぬえ)》などが代表作で,現在も盛んに演じられている。世阿弥作の能の多くは,《伊勢物語》《平家物語》などから舞歌にふさわしい人体を主役に選び,序破急五段の構成を基本とする夢幻能の形態をとったシテ中心の曲である。古歌や古文を巧みに応用し,和歌的修辞や連歌的展開で彩った流麗な謡曲文は,抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一とあいまって,見事な詩劇を創造している。作曲にも抜群の才を示し,音曲的魅力にあふれた曲が多い。後世能を離れて普及した謡(うたい)で好まれたのも世阿弥作の曲である。見・聞の両面にわたって余情あふれる美的世界を現出する夢幻能を完成させた点が,能作者世阿弥の最大の業績であろう。

 世阿弥はまた,自己の芸得を〈道のため,家のため〉に能楽論書に書き残した。彼以前に類書の書かれた形跡はなく,猿楽の社会的地位の向上や能の質的向上が彼の芸道意識を強め,初めての能楽論書を書かせるにいたったのであろう。もちろん彼の文学的素養も寄与していた。現今,彼の著述と認め得る能楽論書は,芸談・随想をも含めて,《風姿花伝》《花習内抜書(かしゆのうちぬきがき)》《音曲口伝(おんぎよくくでん)》《花鏡》《至花道》《二曲三体人形図》《曲付次第(ふしづけしだい)》《三道》《風曲集(ふうぎよくしゆう)》《遊楽習道風見(ゆうがくしゆどうふうけん)》《五位》《九位》《六義(りくぎ)》《拾玉得花》《五音曲条々》《五音》《習道書》《夢跡一紙》《却来華》《金島書》《申楽談儀》の21種である。そこに展開されている世阿弥の芸論の主題は,主要な書の名が示すように〈花〉であった。花とは能の魅力の比喩で,面白さ・珍しさと同意であると彼は説明する。その花の理想的なものとして重視したのが幽玄美(少年の可憐さや貴婦人の優美さがその典型)で,花や幽玄の論はさらに妙花・冷え・無文(むもん)の論へと深められ,そうした高級な芸術美を発現するための習道論にも,二曲三体説,初心不可忘説,却来説などのすぐれた理論が展開されている。生硬な造語や難解な文脈のため読みやすくはないが,道に命を賭した芸人の体験に裏打ちされた真摯(しんし)な所説は,おのずと迫力ある高度の演劇論・芸術論となり得ており,今や世界的に高い評価を受け,外国語訳が続出しているほどである。

 以上に略述したように,自作の能を自身が演じて自己の理想とする美を舞台上に現出し,その体験に基づく芸論をも残したのが世阿弥である。演者と作者と理論家とを一身に兼ねたわけで,世界の文芸史上にも稀な天才と評して過言ではあるまい。世阿弥以後の能は,さまざまの変革を重ねたものの,ついに世阿弥の歌舞幽玄能を超えることはできず,彼の志向した路線に沿って発展してきたと認められる。600年後の現代の能の繁栄や魅力が,世阿弥の偉大さを雄弁に語っているといえよう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「世阿弥」の意味・わかりやすい解説

世阿弥
ぜあみ
(1363?―1443?)

室町時代の能役者、能作者。また理論家、演出家、作曲家として比類ない存在で、父の観阿弥(かんあみ)とともに日本の文化のジャンルに新たに演劇を加えた巨人である。大和猿楽(やまとさるがく)の結崎(ゆうざき)座の創設者観阿弥の長男で、本名は観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)。幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、やがて二条良基(よしもと)から藤若(ふじわか)の名を賜る。父の死(1384)後、2代観世大夫(たゆう)となる。のち、芸名を世阿弥陀仏(だぶつ)とし、大夫職を長男元雅(もとまさ)に譲って出家入道したあとの法名は至翁禅芳(しおうぜんぽう)。

 1374年(文中3・応安7)、父とともに12歳で京都今熊野(いまくまの)で演能したおり、将軍足利義満(あしかがよしみつ)の心をとらえ、以後その惜しみない庇護(ひご)と厳しい指導のもとに能を芸術的に大成した。また、最高の文化人であった摂政(せっしょう)二条良基や、近江(おうみ)猿楽の犬王道阿弥(いぬおうどうあみ)の唯美主義の影響も大きい。大衆の愛顧と支持をよりどころにした観阿弥の行き方、その能の劇的興味に加え、世阿弥は貴族階級の鑑賞眼に訴える高度の詩劇を完成していく。

 世阿弥は「舞歌二道」、つまり演劇的・舞踊的要素と、音楽的要素の融合を目標とし、上品な優雅さ、「幽玄」の美意識を目標とした。その演技術の基本を、気品の表現である「老体」、美そのものの結晶である「女体」、動きのおもしろさの「軍体」の「三体」とし、序破急五段の作劇法を完成した。世阿弥の功績の最大のものは、今日「夢幻能」とよばれる演劇の発想にある。亡霊や神や鬼の登場は、むしろ芸能の原始形態であるが、彼はそれを踏まえつつ、死後の世界から人生そのものを凝縮する、時間と空間を飛躍する前衛的な演劇を創造したのである。その作品群は、物狂い能を除くほとんどが、夢幻能のスタイルで書かれている。

 世阿弥の作品として確実なものは50曲近く、世阿弥らしい曲を加えると倍の数になろう。神の能の類に『高砂(たかさご)』『弓八幡(ゆみやわた)』『養老』『老松(おいまつ)』『放生川(ほうじょうがわ)』『蟻通(ありどおし)』ほか、修羅(しゅら)の能に『八島(やしま)』『敦盛(あつもり)』『清経(きよつね)』『忠度(ただのり)』『実盛(さねもり)』『頼政(よりまさ)』など、今日三番目物とよばれる女体の能に『井筒(いづつ)』『檜垣(ひがき)』『采女(うねめ)』など、四番目物に夢幻能の『西行桜(さいぎょうざくら)』『船橋(ふなばし)』『錦木(にしきぎ)』、夢幻能に準ずる『葵上(あおいのうえ)』『恋重荷(こいのおもに)』『砧(きぬた)』、現在能の『桜川』『班女(はんじょ)』『水無月祓(みなつきばらえ)』『花筐(はながたみ)』『柏崎(かしわざき)』『芦刈(あしかり)』『高野物狂(こうやものぐるい)』『土車(つちぐるま)』『春栄(しゅんえい)』ほか、五番目物に貴公子の霊の『融(とおる)』『須磨源氏(すまげんじ)』、女体の『当麻(たえま)』、鬼の能に『鵺(ぬえ)』『野守(のもり)』『鵜飼(うかい)』『泰山府君(たいさんぷくん)』等々。

 世阿弥はまた多くの芸術論を残したが、15世紀の日本にこのような高度な芸術論が存在したことは驚くべきことであり、外国でも多く翻訳されて評価が高い。ところが、能の家に深く秘せられてきた世阿弥の伝書が、学会に発見されたのは1909年(明治42)のことであった。まず吉田東伍(とうご)によって『世阿弥十六部集』として紹介されたが、その後新資料の発見もあり、現在21の伝書が世に出ている。観阿弥の教えを祖述した『風姿花伝(ふうしかでん)』(花伝書は俗称)を出発点に、世阿弥理論の真髄である『至花道(しかどう)』『花鏡(かきょう)』を経て晩年の『拾玉得花(しゅうぎょくとくか)』『却来華(きゃくらいか)』まで、舞台の体験に裏づけられた思索の深まりをみることができる。その題名に共通する「花」は、能の舞台上の魅力を持続させるための理論であり、「幽玄」とよばれる優雅な理想美が追求され、さらには幽玄を止揚した無心の芸位「闌位(らんい)」に至っている。

 そのほか、幽玄の体系を説く芸位・芸風論に『五位』『九位(きゅうい)』『六儀(りくぎ)』、習道論の『遊楽習道風見(ゆうがくしゅどうふうけん)』、『花鏡』から演出論を抜き出した『花習内抜書(かしゅうのうちぬきがき)』(能序破急事(のうにじょはきゅうのこと))、芸態を図示した『二曲三体人形(にんぎょう)図』、作劇論の『三道(さんどう)』(能作書(のうさくしょ))、音曲論に『音曲口伝』(音曲声出口伝(おんぎょくこわだしくでん))『曲付次第(ふしづけしだい)』『風曲集(ふうぎょくしゅう)』『五音(ごおん)曲条々』、ならびに能の作者の資料としても重要な『五音』、座の統率、各役の職責を説いた『習道書(しゅどうしょ)』、世阿弥の晩年の芸談を次男の元能(もとよし)が筆録した『申楽談儀(さるがくだんぎ)』(世子(ぜし)六十以後申楽談儀)がある。そのほか、『夢跡一紙(むせきいっし)』は嘱望していた長男の元雅の死を悲しむ追悼文であり、『金島書(きんとうしょ)』は最晩年の佐渡配流の心境を淡々と小謡(こうたい)風につづる。

 なお世阿弥自筆の能楽論3種、能本(脚本)9種、書状2種が現存していることは、日本文芸史上最古の例とされ、またその表記法が、分かち書き、当時用例の少ない濁点の使用、現在のような促音の右寄せ、表音式に近い書き方、片仮名、平仮名表記など、世阿弥の独創性を示すものとされる。

 観阿弥は大男であったが、世阿弥は小男であり、その起居動作にリズム感があったという資料が近年発見された。しかし、比類ない名人として世に君臨した世阿弥も、義満の死(1408)後は、ライバル芸能である田楽(でんがく)に将軍家の寵(ちょう)を奪われ、6代将軍足利義教(よしのり)は世阿弥の甥(おい)の音阿弥(おんあみ)をひいきし、世阿弥一座は事ごとに弾圧されるようになる。次男元能は出家して芸を捨て、長男元雅は40歳に満たず伊勢(いせ)に客死する。一座破滅と嘆く世阿弥は、さらに72歳の身を佐渡に流される。理由は不明である。義教暗殺後、許されて娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)のもとに身を寄せたかどうか、その墓のありかもまったくわからない。不幸な後半生であったが、その逆境がかえって後世に能を伝えようとする意欲をかきたてたともいえるし、事実、世阿弥の能とその美学、卓越した芸術理論は、現代に生き続けているのである。

増田正造

『横道萬里雄・表章校注『日本古典文学大系 40 謡曲集 上』(1960・岩波書店)』『小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎校注・訳『日本古典文学全集 33・34 謡曲集1・2』(1973、75・小学館)』『久松潜一・西尾実校注『日本古典文学大系 65 歌論集 能楽論集』(1961・岩波書店)』『伊地知鐵男・表章・栗山理一校注・訳『日本古典文学全集 51 連歌論集・能楽論集・俳論集』(1973・小学館)』『田中裕校注『新潮日本古典集成 世阿弥芸術論集』(1976・新潮社)』『表章・加藤周一編『日本思想大系 24 世阿弥 禅竹』(1974・岩波書店)』『山崎正和編『日本の名著 10 世阿弥』(1969・中央公論社)』『戸井田道三著『観阿弥と世阿弥』(岩波新書)』『北川忠彦著『世阿弥』(中公新書)』


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百科事典マイペディア 「世阿弥」の意味・わかりやすい解説

世阿弥【ぜあみ】

室町初期の能役者,能作者。観阿弥の長男。観世流2世の大夫。幼名藤若丸,のち観世三郎元清。世阿弥は芸名。父の教えと足利義満の庇護(ひご)により能を大成した。義満没後は不遇で,晩年は佐渡に流されている。《風姿花伝》《花鏡》など20を越える能楽論書があり,幽玄美を重視し,〈花〉の理論や〈闌位(らんい)〉という芸位について説く。作品には《高砂》《頼政》《井筒》《班女》《(きぬた)》《融(とおる)》ほか多数あり,詩劇としての完成度が高い。
→関連項目葵上蘆刈綾鼓姨捨音阿弥観世元雅清経金春禅竹申楽談儀柴田南雄俊寛序破急世阿弥十六部集蝉丸同朋衆野宮松風八島山姥大和猿楽謡曲弱法師闌曲

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朝日日本歴史人物事典 「世阿弥」の解説

世阿弥

没年:嘉吉3.8.8?(1443.9.1)
生年:貞治2/正平18(1363)
室町前期の能役者。能を総合芸術として大成させ,現代まで生きる能芸の基礎を確立した。秦氏を称し,通称三郎,実名元清。稚児名藤若(幼名は鬼夜叉か)。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿弥,世阿はその略称。晩年の法名は至翁善芳。観世座の創始者観阿弥の長男。応安3/建徳1(1370)年のころ,観阿弥父子は醍醐寺での7日間の猿楽で京洛に名声を轟かし,次いで応安7/文中3年,洛東今熊野での猿楽を将軍足利義満がはじめて見物して以来,将軍の大きな愛顧を受けるに至る。鬼夜叉はその美童ぶりと猿楽の芸の堪能に加え,連歌や蹴鞠にも非凡な才能を示して義満の寵愛を受け,さらに公家を代表する二条良基にも愛されて,藤若の名を与えられた(13歳)。16,7歳ごろまでの稚児時代が生涯を通じて最も人気の高かった時期である。 至徳1(1384)年,父が没すると弱冠22歳で観世大夫を継ぐが,すでに稚児時代のような義満の独占的愛顧はなく,義満の好みも近江猿楽の犬王道阿弥に傾いていたと思われ,新大夫の前途は多難であった。それでも精進の結果,応永6(1399)年には,京都の一条竹鼻で,義満後援のもと3日間の勧進猿楽を興行し,名声を得ている(37歳)。『風姿花伝』の第三までが翌年に書かれているのも自信のあらわれだろう。芸名を世阿弥(陀仏)と称し始めるのも40歳ごろからである。しかし,当時の第一人者は,舞歌に秀で,優美で情趣たっぷりな能を得意とする道阿弥であった。世阿弥はその芸風の影響を大きく受け,物まねや言葉の面白さを主体とする能から,歌舞中心の幽玄(優美な)能へと,その芸を転換させる。応永15年に義満が没し,義持の時代になると,本格的に禅に傾倒する義持を中心に,禅の精神に裏打ちされた,高度な知性と洗練された趣味の文雅の共同体が,政界のトップたちの間に形成される。世阿弥は,高い鑑賞眼を持つ武家層の観客を相手に,複式夢幻能の様式を完成させ,現代にも通じる能の身体原理を発見し,高度な演劇的思考を展開し,禅風の冷えさびた芸をも追求した。応永29年,世阿弥は60歳で出家して至翁善芳と称し,観世大夫を長男の十郎元雅に譲る。このころは,元雅や次男元能,甥の三郎元重(のちの音阿弥)らも成長し,自身も円熟して観世座は充実しており,『花鏡』『至花道』『三道』などの主要著作が次々に書かれた。 しかし,応永35年に義持が没し,弟の義教が将軍を継ぐと,前々から三郎元重を後援していた義教によって,世阿弥たちに圧迫が加わる。永享2(1430)年,元能が『申楽談儀』をまとめて出家し,2年後には将来を嘱望した元雅が急死し,さらに2年後には,世阿弥も佐渡へ流されてしまう。佐渡で書いた小謡集『金島書』の奥付,永享8年2月が,同時代資料として世阿弥の動静を示す最後の日付である。<参考文献>『世阿弥・禅竹』(日本思想大系24巻)

(松岡心平)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「世阿弥」の意味・わかりやすい解説

世阿弥
ぜあみ

[生]正平18=貞治2(1363)?
[没]嘉吉3(1443)?.8.8.
室町時代の能役者,能作者。観阿弥の長男。観世座2世大夫。幼名鬼夜叉,藤若,元服して観世三郎元清。文中3=応安7(1374)年か翌年 12歳のおり,父とともに将軍足利義満に見出されて殊遇を受けた。元中1=至徳1(1384)年 22歳で父の死にあったが,観阿弥の大成した能をさらに幽玄の能として完成させた。応永8 (1401) 年頃より世阿弥陀仏と号した。同15年義満が没し,義持が田楽の増阿弥を寵愛してから不遇となり,永享1(1429)年義教が将軍となってからはことに弾圧を受け,同4年,嫡子十郎元雅没後,大夫を甥の音阿弥に譲らされて,同6年佐渡に流された。その後帰洛したか否かは不明。作品は 50番余を数え,芸術論『風姿花伝 (通称花伝書) 』『花鏡』など二十余編を残した。金春禅竹はその女婿。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「世阿弥」の解説

世阿弥
ぜあみ

1363?~1443.8.8?

室町時代の能役者・能作者。観阿弥の子で2代観世大夫。弟に四郎がいる。幼名藤若(ふじわか)。通称三郎。実名元清(もときよ),法名至翁善芳。世阿・世阿弥は擬法名世阿弥陀仏の略称。12歳の年に今熊野(いまくまの)能で将軍足利義満に称賛され,以後寵愛をうける。父没後は観世大夫として,当時隆盛をきわめた田楽や近江猿楽の犬王(いぬおう)と競い,1399年(応永6)京一条竹ケ鼻勧進猿楽で名声を博した。犬王の影響をうけ,物まね本位から歌舞中心へと芸風を転じ,将軍義持の批判に堪えた。1429年(永享元)音阿弥を贔屓した義教(よしのり)が将軍になったのちは冷遇され,30年に次子の元能が出家,32年には長子の元雅が客死し,34年には自身が佐渡に流された。著述は「風姿花伝」「花鏡」など能楽論書21種,確認できる能作は50曲近い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「世阿弥」の解説

世阿弥 ぜあみ

1363-1443 南北朝-室町時代の能役者,能作者。
貞治(じょうじ)2=正平(しょうへい)18年(一説に翌年)生まれ。観阿弥(かんあみ)の長男。大和猿楽観世座2代大夫(たゆう)。将軍足利義満の後押しで猿楽を幽玄な能(夢幻能)に大成,能楽論「風姿花伝(ふうしかでん)」「花鏡(かきょう)」をあらわす。観世座大夫継承をめぐって将軍足利義教の怒りにふれ,永享6年72歳で佐渡に流された。嘉吉(かきつ)3年81歳で死去したとされる。名は元清(もときよ)。幼名は鬼夜叉,藤若。通称は三郎。法名は至翁善芳。作品に「高砂」「井筒」「班女」など。
【格言など】秘すれば花(「風姿花伝」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「世阿弥」の解説

世阿弥
ぜあみ

1363〜1443
室町時代の能役者・能作者
左衛門太夫元清。観阿弥清次の子。父につぎ3代将軍足利義満の同朋衆として庇護をうけ,父の芸風に歌舞的要素と禅的幽玄美を加えて能を大成した。のち6代将軍足利義教に,甥音阿弥が登用されると,子元雅とともに冷遇・圧迫されたが,逆境でさらに芸風を深めた。『風姿花伝』『花鏡』『申楽談儀 (さるがくだんぎ) 』など能楽書23部が伝わる。

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デジタル大辞泉プラス 「世阿弥」の解説

世阿弥

山崎正和による戯曲。初演は劇団俳優座(1963年)。同年、第9回「新劇」岸田戯曲賞(のちの岸田国士戯曲賞)を受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の世阿弥の言及

【アコヤガイ(阿古屋貝)】より

…養殖真珠の母貝に使うウグイスガイ科の二枚貝(イラスト)。真珠をとるのでシンジュガイともいう。殻の高さ7.5cm,長さ7cm,膨らみ3cmに達する。左殻は右殻よりも膨らむ。形は一定しないが四角形状。殻表はふつう黒褐色で黒紫色の雲状斑や赤色,緑色,黄色などの色帯が殻頂から放射状に出,成長脈に沿って雲母状片が重なったようになるが,成長するとそれらを失って滑らかになり,動植物が付着し汚れる。右殻の前縁には足糸が出る隙間があり,糸を出して岩などに付着する。…

【蘆刈】より

現在物世阿弥作。シテは蘆売り,実は日下左衛門(くさかのさえもん)。…

【敦盛】より

修羅物世阿弥作。シテは平敦盛の霊。…

【井筒】より

鬘物(かつらもの)。世阿弥作。シテは井筒の女の霊。…

【謡本】より

…簡便な洋装横本の百番集もある。 現存最古の謡本は,15世紀の世阿弥自筆本で,《難波》《江口》《雲林院》など9巻(ほかに近世に臨写した《弱法師》)が伝存し,本文はかたかな書きで,譜は心覚え程度であるが,根本の方針は今と変りがない。ごくまれだが演出注記もあり,世阿弥は〈謡の本〉とも〈能の本〉とも呼んでいる。…

【演技】より

…その俳優の演技についての論は,演劇を論ずるとき最重要であるはずだが,西欧では,体系的演劇論としては戯曲論の方が先行して量的にも質的にも優先し,演技論が理論的体系的に扱われるのは,近代のモスクワ芸術座の創始者K.S.スタニスラフスキー以後である。 ところが日本の伝統演劇の世界では,この事情がまったく逆で,15世紀前半にすでに《花伝書》をはじめとする世阿弥の高度な演技論が成立していた。その後も,能,狂言,歌舞伎の芸論,芸談と,観客の側からのおびただしい量の役者評判記が残されている。…

【演劇】より

…仮面が人間を使うのではなく,人間が意識的に仮面を使うのだ。その意味で,世阿弥が完成したいわゆる複式夢幻能は,仮面による憑依・変身の手続きと成果を,劇作術の仕組みそのものに置きかえたものだともいえる。 ともあれ,ルネサンス以降の西洋世界では,仮面(マスク)はいかがわしい虚偽の外見であり,真実はその下に隠されているという思想が定着していたから,逆に外に現れたものは徹底的に真実に似ていなければならなかった。…

【老松】より

…神物。世阿弥作。シテは老松の神霊。…

【花鏡】より

世阿弥の著した能楽論書の一つ。別名を〈はなのかがみ〉ともいう。…

【型】より

…それとともに,型もまたその創造のための規範的な行動様式へと変質する。 変質した型についてその性格を明示した最初の人は猿楽の世阿弥であった。〈形木(かたぎ)〉という語を用いて,〈ヲヨソ,音曲ニモ,筋ハ定マレル形木,曲ハ上手ノモノ也。…

【花伝書】より

…《風姿花伝(ふうしかでん)》の通称。世阿弥が父観阿弥の遺訓に基づいてまとめた最初の能楽論。正しい書名は《風姿花伝》あるいは《花伝》であるが,1909年吉田東伍によって翻刻されたいわゆる吉田本が《花伝書》と命名して以来,この名で知られている。…

【喜阿弥】より

…足利義満の時代に,大和猿楽の観阿弥,近江猿楽の犬王と同等の活躍で格別の芸域にあった。喜阿弥の芸については世阿弥の《申楽談儀》に詳しく,世阿弥は彼を〈音曲の先祖(模範)〉とし,〈寵深花風(ちようしんかふう)〉(〈妙花風〉に次ぐ第2位)と評価している。音曲は日吉(ひえ)の牛熊(うしくま)のを似せたという。…

【砧】より

四番目物世阿弥作。シテは芦屋なにがしの妻。…

【清経】より

修羅物世阿弥作。シテは平清経の霊。…

【恋重荷】より

四番目物世阿弥作。《綾鼓(あやのつづみ)》の原拠と思われる《綾太鼓(あやのたいこ)》に想を得た作。…

【西行桜】より

三番目物世阿弥作。シテは桜の精。…

【桜川】より

…狂女物。世阿弥作。シテは桜子の母(狂女)。…

【猿楽】より

…また南北朝から室町初期にかけて猿楽者の集団は座の体制をとるようになり,各地に猿楽の座が存在した。なかでも大和猿楽の四座,近江猿楽六座が名高く,ことに大和の結崎(ゆうざき)座の観阿弥世阿弥父子によって今日の能の基礎が固められるのである。
[猿楽の役者]
 当時の有名な役者たちを挙げると,〈田楽〉の一忠・花夜叉・喜阿弥・高法師(松夜叉)・増阿弥(〈田楽〉も猿楽とさして距離をおかぬものであって,世阿弥伝書にも総合的に論じられている),近江猿楽の犬王(いぬおう),大和猿楽の金春権守(こんぱるごんのかみ)・金剛権守などである。…

【申楽談儀】より

…能の伝書。晩年における世阿弥(ぜあみ)の芸談を次男の元能(もとよし)が筆録・整理したもの。奥書によれば,1430年(永享2)11月,元能が出家遁世するに際し,それまで父世阿弥から受けた芸道の教訓を少しもなおざりにしなかった証拠としてまとめたものであるが,だれに贈ったものかははっきりしない。…

【至花道】より

世阿弥の書いた能の伝書。能芸における稽古習道に関する考えをまとめたもので,奥書から1420年(応永27)6月,世阿弥58歳のときの著述であることがわかる。…

【序破急】より

…芸能の分野では,観阿弥から〈一切(いつさい)の事(じ)に序破急あれば,申楽もこれ同じ。能の風情を以て定むべし〉との教えをうけた世阿弥は,能一曲の構成について,ワキ登場の段を序,シテ登場を破一段,シテ・ワキ応対を破二段,シテの物語から中入りを破三段,後ジテの場面の全体を急であるとし,また,番組編成についても,初番目を序,二番目を序の名残,三番目からを破とするなどと述べ,やがて,初番目が序で二,三,四番目が破の一,二,三段,五番目が急と説明されるようになる。世阿弥はさらに,〈一舞・一音の内〉や〈舞袖の一指,足踏の一響〉〈見所一見〉などにまで,序破急を説く。…

【高砂】より

…神物。世阿弥作。シテは住吉明神の神霊。…

【忠度】より

…修羅物。世阿弥作。シテは平忠度の霊。…

【手】より

…インド古来の舞踊は手の表意を重視しているが,日本の文楽や能も顔の表情に頼らず,手や指の微妙な運動に技巧を凝らしている。世阿弥は舞の五智として,手智,舞智,相曲智,手体智,舞体智を挙げるが,いずれも手の動きのくふうである(《覚習条々》)。仏像の両手がつくる転法輪印,施無畏(せむい)印,与願印,法界定(ほうかいじよう)印,九品(くほん)印その他の印相や山伏の結印などは仏教や修験道の教義と不可分である。…

【融】より

五番目物。世阿弥作。シテは源融の霊。…

【南阿弥】より

…南阿弥に代表されるような将軍側近の遁世者の活躍が,当時なお田楽に圧倒されがちであった猿楽の能の地位向上と洗練に大きく寄与することとなった。観阿弥・世阿弥父子が京都今熊野で能を興行した際(1374年ころ),初めて猿楽能見物に来臨した義満に観阿弥を推奨し,義満による観阿弥,ひいては猿楽能の後援への道を開いたのは南阿弥である。彼はこの後も観阿弥らにしばしば芸事上の助言を与え,時にはみずから作曲するまでに親炙(しんしや)し,猿楽能,田楽の道の者から〈節ノ上手〉と称揚されるほどであったという。…

【男色】より

…とくに服装,言語,動作までまったく女性同様になることは,男娼において著しい。しかし一方では,足利義満と世阿弥との関係や,歌舞伎の女形のように,演劇界の発展につながるなど芸術上に及ぼした影響は少なくなかった。同性愛【原島 陽一】。…

【鵺】より

…五番目物。世阿弥作。シテは鵺の霊。…

【能】より

…観阿弥の功績は,物まね本位だった大和猿楽に,近江猿楽や田楽の歌舞的に優れた面をとり入れたこと,伝統であった強い芸風を幽玄(優美とほぼ同義)な芸風に向かわせたこと,リズムを主とした曲舞(くせまい)の曲節を導入したことなどである。観阿弥は南北朝末に死ぬが,その子である後の世阿弥(ぜあみ)は,父に劣らぬ才能をもち,能をいっそう高度な舞台芸術に育てた。とくに夢幻能という様式を完全な形に練り上げたことと,能の道の理論的裏付けとしての約20種の著述を残したことは不滅の功績である。…

【野守】より

…鬼物。世阿弥作か。シテは鬼神。…

【八帖花伝書】より

…内容は能楽起源伝説,翁立ちの条々(巻一)をはじめ,調子や謡(うたい),あるいは稽古・囃子に関する諸論および実技についての具体的知識(巻二~八)など多方面にわたる。世阿弥の遺著に仮託されているが,実情は《風姿花伝(ふうしかでん)》の〈物まね条々〉,および〈問答条々〉と《音曲声出口伝(こわだしくでん)》の一部を収載しているにすぎず,他の大部分は16世紀前半の小鼓打ち宮増(みやます)弥左衛門の鼓伝書をはじめ,当時の伝書類をいろいろ取り集めて構成したものらしい。したがって,明治末年に《世阿弥十六部集》が発見されてからは,ほとんど顧みられなくなったが,本書の価値は芸能論としてよりもむしろ実技・実用面にみるべきであって,とくに囃子,装束付け,舞台,舞・型等に関する実際的な心得などは,能楽が固定化しはじめた室町末期の様相を探るうえで貴重な資料といえよう。…

【花筐】より

…狂女物。世阿弥作だが,クセは観阿弥作曲の《李夫人の曲舞(くせまい)》。シテは照日前(てるひのまえ)(狂女)。…

【班女】より

…狂女物。世阿弥作。シテは遊女花子(はなご)(後に狂女)。…

【檜垣】より

…老女物。世阿弥作。シテは老いた白拍子(しらびようし)の霊。…

【百万】より

…狂女物。世阿弥作。観阿弥の演じた《嵯峨物狂》が原拠。…

【風姿花伝】より

…能楽の大成者世阿弥が父観阿弥の遺訓に基づいて著した最初の能楽論書。略称を《花伝》ともいう。…

【間】より

…また,近世舞踊の場合にも,基本的には能の八拍子(やつびようし)にしたがいながら,拍子に乗りすぎることを嫌い,いかに〈間を抜く〉かが芸の眼目になっているといわれる。この精神は古く能楽の草創期にさかのぼり,世阿弥もまた,〈わざ〉と〈わざ〉との間隙(かんげき)を大切にして,いわゆる〈せぬひま〉をおもしろく見せるくふうを要求している。彼によれば,芸の要諦は〈万能を一心に綰(つな)ぐこと〉,すなわち〈わざ〉の根底に内面の緊張を持続することであるが,この間隙にこそその緊張が直接に露呈する,というのである。…

【松風】より

鬘物(かつらもの)。古作の《汐汲(しおくみ)》を原拠にした観阿弥作の能に,世阿弥が改作の手を加えたもの。シテは海人(あま)松風の霊。…

【夢幻能】より

… 作劇法の面から見た場合,歌舞的統一体として能を完成させるために考案されたのが夢幻能形式だったと考えられる。その考案者は明確でないが,多くの優れた夢幻能を制作して様式を完成させたのは世阿弥である。世阿弥は,夢幻能の作劇法を理論化した著書《三道(さんどう)》(1423)で,能の構成を序一段・破三段・急一段の序破急五段としたうえで,各段の演技内容や音曲の基準を示し,さらに一曲の本説(ほんぜつ)(中心的典拠。…

【大和猿楽】より

…本拠とした地名をもって〈竹田の座〉とも呼ばれた(《申楽談儀(さるがくだんぎ)》)。同座の伝承では円満井座は秦河勝に始まるとされ,金春禅竹以後の大夫は秦氏を名のっているが,世阿弥やその次男元能までが秦氏を称している点にも,本座としての円満井座の由緒がうかがえる。しかし,確実な系譜としてたどれるのは鎌倉後期ころの毘沙王権守(びしやおうごんのかみ)までで,それ以前は不明である。…

【弓八幡】より

…神物。世阿弥作。シテは高良神(かわらのしん)の神霊。…

【養老】より

…神物。世阿弥作。前ジテは孝子(ツレ)の老父。…

【頼政】より

修羅物。世阿弥作。シテは源頼政の霊。…

【弱法師】より

観世元雅(もとまさ)作。ただしクセは世阿弥作らしい。シテは俊徳丸。…

※「世阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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