墨俣川の戦(読み)すのまたがわのたたかい

百科事典マイペディア 「墨俣川の戦」の意味・わかりやすい解説

墨俣川の戦【すのまたがわのたたかい】

美濃(みの)国墨俣付近で行われた数々の戦い。墨俣は古代には東海道東山(とうさん)道を結ぶ美濃路が通じ,16世紀末まで木曾長良(ながら)・揖斐(いび)の三川が合流し,美濃と尾張(おわり)の国境で,軍事上の要衝地であったため,たびたび東西勢力がぶつかる戦場となった。1181年の源平争乱では源行家(ゆきいえ)軍と平重衡(しげひら)軍が対戦。1221年承久の乱では京方の軍が墨俣での防衛戦に敗退。戦国期,織田信長方の木下藤吉郎豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築き,斎藤軍を撃退小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦では,秀吉方の軍と徳川家康軍とが対峙した。

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改訂新版 世界大百科事典 「墨俣川の戦」の意味・わかりやすい解説

墨俣川の戦 (すのまたがわのたたかい)

美濃国墨俣で行われた戦い。墨俣川は現在長良(ながら)川の別称にすぎないが,かつては木曾,長良,揖斐(いび)の3川その他の中小河川が美濃国安八(あんぱち)郡墨俣(洲股)で合流して大河となり,濃尾国境をなしていた。ためにこの付近は軍事上の要衝として,たびたび東西両勢力が接触する戦場となった。1181年(養和1)3月,源行家,頼朝の弟義円(ぎえん)が率いる尾張,三河の軍勢と平重衡以下の平氏軍とが,この川を挟んで東西に対陣したが,平氏の先制夜襲により源氏軍は惨敗を喫し,平氏方に久方ぶりの勝利をもたらすとともに,以後しばらくの間,東海道方面の戦線は膠着状態に陥った。1221年(承久3)承久の乱のおりには,後鳥羽上皇の派遣した藤原秀康,山田重忠らの軍勢が木曾川の各渡(わたし),墨俣に拠って鎌倉幕府軍の西上を支えようとしたが,なすところなく敗退した。南北朝内乱期にもこの地はたびたび戦塵にまみれた。
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