平重衡(読み)たいらのしげひら

  • 1157―1185
  • たいらのしげひら〔たひら〕
  • 平重衡 たいらの-しげひら

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]保元2(1157).京都
[没]文治1(1185).6.23. 奈良
平安時代末期の武将。左近衛権中将,従三位。父は清盛。治承4 (1180) 年平家討伐の軍を起した源頼政を宇治川の戦いで破り大功を立てた。次いで園城寺や南都の反平氏勢力を一掃したが,奈良を攻撃した際,民家に放火したのがもとで,興福寺,東大寺が全焼,東大寺の大仏の首も焼け落ちた。そのため仏敵として僧侶をはじめ貴族らの非難を受けた。寿永3=元暦1 (84) 年源範頼,義経らと一ノ谷に戦って敗れ (→一ノ谷の戦い ) ,梶原景時従卒に捕えられ鎌倉に護送された。源頼朝はその器量に感じ入り厚遇した。平家滅亡後,東大寺興福寺が仏敵として彼の引渡しを要求。奈良に護送され木津川川辺で斬首され,奈良坂にさらし首にされた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1157-1185 平安時代後期の武将。
保元(ほうげん)2年生まれ。平清盛の5男,母は平時子。治承(じしょう)4年南都攻撃の総大将となり東大寺,興福寺を焼き打ち,翌年源行家軍をやぶりその功で従三位となった。一ノ谷の戦いで捕虜となり鎌倉に護送されたが,元暦(げんりゃく)2年6月23日南都側の要求で木津川畔できられた。29歳。
【格言など】願わくは逆縁を以て順縁とし,只今の最期の念仏によって,九品蓮台(くほんれんだい)に生(しょう)をとぐべし(「平家物語」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

没年:文治1.6.23(1185.7.21)
生年:保元2(1157)
平安末期の武将。平清盛の5男,母は平時子。宗盛,知盛,徳子らの同母弟。生年を保元1(1156)年とする説もある。応保2(1162)年に叙爵し,尾張守,左馬頭,中宮亮などを経て,治承3(1179)年左近衛権中将,翌年蔵人頭と累進。極官が正三位左近衛権中将であったため,「本三位中将」ともいわれた。文武兼備の人物で,蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方,源平争乱が勃発すると,武将として奮迅の活躍をし,治承4年5月に以仁王・源頼政の挙を鎮圧,同年12月には興福寺・東大寺攻撃の総大将となって大仏殿以下を焼き打ちした。このため,仏敵と非難されるが,翌年3月墨俣川の戦で源行家を撃破し,平家都落ちののちも,寿永2(1183)年閏10月の水島合戦,翌月の室山合戦などでも勝利を収めた。しかし,翌年2月,一のの戦で捕虜となり,兄宗盛のもとに使者を遣わして,三種の神器の返還と源平の和議を試みようとするが実現せず,鎌倉に護送された。源頼朝に厚遇されるが,興福・東大両寺の衆徒の強い要求によって奈良に送られ,南都焼き打ちの張本として木津川畔で斬首。『平家物語』は,虜因の身となった重衡を,平家の滅亡を象徴する非運の武将として哀切に描いている。<参考文献>安田元久『平家の群像』

(田中文英)

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世界大百科事典 第2版の解説

1157‐85(保元2‐文治1)
平安末期の武将。清盛の子。従三位左近衛中将。剛勇をもってなり,1180年(治承4)5月源頼政を宇治に破り,12月東大寺・興福寺を焼いた。84年(元暦1)一ノ谷の戦で捕らえられる。後白河法皇は重衡を説いて宗盛に三種の神器の返還を交渉させたが実現せず,のち鎌倉に送られる。85年6月,東大寺・興福寺両寺の衆徒の要求で奈良に送られる途中木津川で斬首された。【田中 文英】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平安後期の武将。平清盛(きよもり)の五男。1180年(治承4)の南都焼打ち事件の総大将として著名。「武勇の器量に堪う」と評され(玉葉(ぎょくよう))、81年(養和1)尾張墨俣(おわりすのまた)川の合戦で源行家(ゆきいえ)を破る。同年その功で従三位(じゅさんみ)、左中将となる。しかし、84年(元暦1)一ノ谷の合戦で敗北し、捕らえられた。のち和平交渉の仲介にあたるも不調。鎌倉に護送され、源頼朝(よりとも)のもてなしを受けるが、南都側の要求により、元暦(げんりゃく)2年6月23日、木津(きづ)川で斬(き)られた。

[樋口州男]

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精選版 日本国語大辞典の解説

平安末期の武将。清盛の五男。治承四年(一一八〇)源頼政を宇治川に破り、また東大寺、興福寺を攻めてこれを焼き払った。のち、一ノ谷の戦いで敗れ、捕えられて鎌倉に送られたが、東大寺、興福寺衆徒の要求で奈良に連行され、木津川で斬られた。保元二~寿永四年(一一五七‐八五

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

1157〜85
平安末期の武将
清盛の子。1180年反平氏勢力が蜂起したとき,南都北嶺堂衆を中心として平氏に反抗したので重衡が,兵を率いて東大寺・興福寺を攻め大仏殿などの伽藍 (がらん) を焼打ちした(南都焼打ち)。平家軍の中心として活躍したが,一の谷の戦いで捕らえられ,のち奈良に移送される途中斬首された。

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世界大百科事典内の平重衡の言及

【海道下り】より

…【小笠原 恭子】
[平曲]
 平曲の《海道下》は平物(ひらもの),フシ物。一ノ谷の戦で生け捕られた平重衡(しげひら)は,東海道を鎌倉へ護送されることになった。四宮河原(しのみやがわら)を通るときは,延喜の帝の第4皇子蟬丸の昔がしのばれた。…

【千手】より

…フシ物。源平の戦で捕虜になった平重衡(しげひら)が鎌倉へ護送されたので,頼朝が対面し,東大寺焼討ちの責任についてただす。重衡は一門の不運を嘆き,自分の処刑を急ぐよう願うが,奈良の寺院の意向も聞かねばというので許されない。…

【備後国】より

…平安末期に一宮の制ができると吉備津神社が一宮とされた。1166年(仁安1)平重衡(しげひら)が後白河院に寄進して大田荘が成立すると,68年尾道村を大田荘の倉敷地(くらしきち)とする申請が認められ,尾道が港町として栄える基ができた。【坂本 賞三】
【中世】

[鎌倉時代]
 1184年(寿永3)源頼朝は土肥実平(どひさねひら)を備前,備中とともに備後の守護に任じ,備後には実平の男遠平(とおひら)が代官として在国した。…

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