壱岐国(読み)いきのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

壱岐国
いきのくに

現在の長崎県壱岐西海道の一国。下国。『魏志倭人伝』に一支島とある。古くから大陸との交通の要地にあたり,原の辻遺跡からは中国,前漢末の新朝の王莽貨泉が出土している。もと伊吉島造,壱岐県主があり,のちに独立して一国となる。国府,国分寺ともに壱岐市芦辺にある。『延喜式』には壱岐 (ゆき) ,石田 (いした) の2郡があり,『和名抄』には郷 13,田 620町余がみえる。また狭い島内に式内社が 24社もあり,これは異例である。寛仁3 (1019) 年の沿海州地方の刀伊による来襲や,文永 11 (1274) 年および弘安4 (1281) 年の2度にわたる元寇の際に大きな被害を受けた。鎌倉時代には少弐氏が守護を務め,室町時代には松浦党の支配が続いた。戦国時代には波多氏を経て,松浦氏が支配したが,江戸時代には平戸藩主としての松浦氏の領有となり,幕末にいたる。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県には平戸県,さらに同年 11月,長崎県に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

いきのくに【壱岐国】

現在の長崎県 壱岐(いき)島を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で西海道(さいかいどう)に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の壱岐市芦辺(あしべ)町におかれていた。壱岐島は北九州と朝鮮半島を結ぶ交通の要地にあり、中国の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には一大(支)国という名で見える。1019年(寛仁(かんにん)3)の女真族(じょしんぞく)による刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)では国守藤原理忠(ふじわらのまさただ)が戦死した。鎌倉時代には少弐(しょうに)氏守護となったが、1274年(文永(ぶんえい)11)の蒙古(もうこ)襲来(文永・弘安の役(えき))で全島が占領された。室町時代には倭寇(わこう)の基地となり、やがて松浦(まつら)党の5氏が分治。江戸時代には平戸藩主松浦氏の所領となり、幕末に至った。江戸時代には捕鯨が盛んに行われた。1871年(明治4)の廃藩置県により、平戸(ひらど)県を経て長崎県に編入された。◇壱州(いっしゅう)ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

壱岐国
いきのくに

玄界灘(げんかいなだ)上の一島、壱岐島の旧国名。現在は長崎県壱岐市に属している。壱岐は対馬(つしま)とともに、朝鮮半島と日本を結ぶ交通の要地であり、大陸文化の流入路に位置し、倭寇(わこう)の根拠地でもあった。島全体が玄武岩の台地で、対馬と比較して平地が多く、周囲を海に囲まれて現在に至るまで漁業が盛んである。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には一大(支)国という名でみえ、卑狗(ひこ)と卑奴母離(ひなもり)という統治者がおり、面積は300平方里ばかりで、竹木叢林(そうりん)が多く、3000戸ほどの家があり、少々の田地があるが、自給自足するには足りないとの記事がある。律令(りつりょう)国郡制では壱岐国は西海道九国二島のうちで、下国。国府は初め壱岐郡国分、のちに石田(いわた)郡芦辺(あしべ)に移った。『延喜式(えんぎしき)』によると、壱岐、石田2郡よりなり、壱岐郡には風早(かぜはや)、可須(かす)、田河(たか)、鯨伏(いさふし)、潮安(しおやす)、伊宅(いたけ)、那賀(なか)の7郷、石田郡には石田、物部(もののべ)、篦原(しぬはら)、沼津(ぬまづ)の4郷があった。壱岐国の税収入は正税(しょうぜい)1万5000束、公廨(くがい)5万束、修理池溝(ちこうりょう)5000束、救急2万束で、庸(よう)、中男作物(ちゅうなんさくもつ)は免除されていた。式内社(しきないしゃ)は壱岐郡12座、石田郡12座があり、島分(とうぶん)寺(国分寺にあたる)は芦辺に置かれていた。外敵の侵入に備えるために防人(さきもり)が派遣され、14か所の烽(とぶひ)が設けられていた。1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)では、壱岐国守藤原理忠(まさただ)も殺害された。壱岐国の荘園(しょうえん)には主殿(とのも)寮領であった志原保のほか石田保、物部庄(もののべしょう)、筒城(つつき)庄などがあった。鎌倉時代の守護は、筑前(ちくぜん)などとともに武藤(むとう)(少弐(しょうに))氏が兼帯していたが、1274年(文永11)にはモンゴル軍が上陸し、守護代平景隆(かげたか)以下が戦死し、さらに1281年(弘安4)にも瀬戸浦(壱岐市芦辺町)に集結していたモンゴル軍船を九州の武士が襲い激戦が展開された。南北朝時代には佐志氏、鴨打(かもち)氏、呼子(よぶこ)氏、塩津留(しおつる)氏、真弓(まゆみ)氏、牧山(まきやま)氏などの土豪が割拠して、朝鮮との貿易を行っていたが、この時代壱岐は対馬、松浦(まつら)とともに倭寇の根拠地とされていた。1472年(文明4)上松浦(かみまつら)岸岳(きしだけ)城主波多泰(はたやすし)が来襲し、平定して統治することになった。1555年(弘治1)立石(たていし)、牧山、下条(しもじょう)、松本氏など壱岐六人衆の反乱が起きたが、日高、佐々木、山本氏などの協力によって波多氏の統治が続けられていた。ところが1571年(元亀2)日高、立石氏などが平戸松浦氏の家臣となったため、以後壱岐は平戸松浦氏が領有することになった。近世には8か浦24か村98触(ぶれ)に分かれており、各村に庄屋、その下に数人の朷頭(さすがしら)(百姓頭)がいて農民の支配にあたっていた。明治新政府の廃藩置県により、松浦氏の所領であった壱岐は、1871年(明治4)7月平戸(ひらど)県に属したが、その年の11月長崎県に統合されたため、以後今日に至るまで長崎県の所管となっている。[瀬野精一郎]

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世界大百科事典内の壱岐国の言及

【壱岐島】より


【古代】
 対馬島とともに古くから日本と朝鮮間の海上交通の要衝として重視され,その名はすでに《魏志倭人伝》に〈一大(支)国〉として見え,対馬島よりも田地は広く,人口は3倍であったという。大化前代は壱岐県主に支配され,律令制下では石田・壱岐2郡を管して国に準ずる取扱いを受け,のちには名実ともに壱岐国と称された。《延喜式》では西海道に属する下国とされた。…

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