少弐氏(読み)しょうにうじ

改訂新版 世界大百科事典 「少弐氏」の意味・わかりやすい解説

少弐氏 (しょうにうじ)

鎌倉時代から戦国時代にかけて九州で活躍した武家。元来武蔵国の出身で武藤氏を称したが,鎌倉時代の初め,武藤資頼(すけより)が鎮西奉行として九州に下向し,大宰府に居を構えて代々大宰少弐を世襲したため,少弐氏と称された。資頼は筑前豊前,肥前,壱岐対馬守護を兼ね,その後資能,経資,盛経,貞経と続いた。経資はモンゴル襲来に際して日本軍の統率にあたり,襲来後に設置された鎮西談議所や訴訟を扱う合議機関では中心的な地位にあった。しかし1285年(弘安8)霜月騒動の余波として起こった岩門合戦で,少弐景資が兄経資に反旗をひるがえし敗死した結果,一族の淘汰がおこなわれ,少弐氏の勢力は後退した。その後設置された鎮西探題の下で盛経,貞経は代々二番引付頭人となり,北条氏の九州支配に完全に組み込まれた。また一方では多くの守護職を北条氏に奪われた。こうして北条氏得宗の専制支配の強化に不満をつのらせる少弐貞経・頼尚父子は,1333年(元弘3)大友氏,島津氏とともに挙兵し,鎮西探題を滅ぼした。頼尚は筑前,豊前,肥後,対馬の守護となり勢力を回復するが,九州の政治情勢に対応して複雑な動きをみせ,59年(正平14・延文4)の筑後川の戦で南朝方に敗れて勢力を失った。少弐氏は博多に本拠を置く九州探題とは競合せざるをえず,75年(天授1・永和1)少弐冬資が探題今川了俊に謀殺されて以来,急速に没落した。その後の貞頼,満貞,嘉頼,教頼は北部九州と対馬の間を転々とし,対馬宗氏の勢力を背景に筑前を回復したこともあったが,九州に進出した大内氏の前に敗退した。1469年(文明1)教頼の子頼忠は宗貞国とともに筑前を回復したが,貞国の離反にあい,78年大内政弘に敗れて肥前に退いた。その後,資元,冬尚は肥前の三根養父,基肄の3郡を中心に局地勢力化し,1576年(天正4)の史料にみえる少弐政興の名を最後に,歴史上から姿を消した。
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百科事典マイペディア 「少弐氏」の意味・わかりやすい解説

少弐氏【しょうにうじ】

中世の北九州の豪族。藤原秀郷の子孫と称し,初めは武藤氏といった。鎌倉初期,資頼(すけより)が源頼朝に従い,鎮西(ちんぜい)奉行として九州に赴き,大宰少弐(だざいのしょうに)に任ぜられてからその職を世襲して少弐を姓とした。南北朝時代には北朝方として活躍したが,室町時代大内氏に大宰府を追われて肥前(ひぜん)に走り,竜造寺氏にも追われて滅亡。→大宰帥
→関連項目一色範氏承天寺竜造寺氏

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「少弐氏」の意味・わかりやすい解説

少弐氏
しょうにうじ

鎌倉時代から戦国時代に及ぶ北九州の豪族。本姓は藤原氏。武藤(むとう)氏と称するが、代々、大宰少弐(だざいのしょうに)を世襲して少弐氏とよばれた。本貫(ほんがん)は武蔵国(むさしのくに)。資頼(すけより)が1195年(建久6)ごろ九州に下向し鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)となり、1226年(嘉禄2)大宰少弐に就任。その子資能(すけよし)は筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)、肥前、壱岐(いき)、対馬(つしま)の守護であったが、蒙古(もうこ)襲来(元寇(げんこう))を機として守護職(しき)は減少した。南北朝時代、頼尚(よりひさ)が勢力拡充に奮闘したが、菊池武光(たけみつ)と筑後大保原(おおほばる)に戦って打撃を受けて以来振るわなくなり、室町・戦国時代には大内氏などと抗争して北九州を追われ、対馬の宗(そう)氏の後援で内陸反抗を繰り返したが、1559年(永禄2)時尚(ときひさ)が千葉氏、龍造寺(りゅうぞうじ)氏に攻められて自殺したため、事実上少弐氏は滅んだ。

[上田純一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「少弐氏」の意味・わかりやすい解説

少弐氏
しょうにうじ

藤原秀郷の後裔。初め武藤氏を称した。鎌倉時代初期武藤資頼が鎮西に下向して大宰少弐に補任されて以来,代々その職を世襲して,少弐氏を称した。鎌倉時代には筑前,豊前,肥前,壱岐,対馬守護を兼帯し,蒙古襲来の際は大友氏とともに鎮西の実戦指揮者として活躍した。南北朝時代には足利方につき征西将軍宮方と抗争したが,次第に勢力が衰え,戦国時代には大内氏に圧迫されて大宰府を放棄し,肥前,対馬などを転々としたが,永禄2 (1559) 年,少弐冬尚が千葉胤連に滅ぼされて滅亡した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「少弐氏」の解説

少弐氏
しょうにし

中世の九州北部の豪族。秀郷(ひでさと)流藤原氏。武藤資頼(すけより)は源頼朝に従い,筑前・豊前・肥前・対馬諸国の守護および大宰少弐に任じ,子の資能(すけよし)以下が世襲して少弐氏を称した。資能と子の経資(つねすけ)は元寇に際して活躍。経資の孫貞経(さだつね)は大友氏らと鎮西探題を滅ぼし,足利氏に従う。子頼尚(よりひさ)も北九州北軍の中心。室町時代,九州探題渋川氏を支援する大内氏に大宰府を追われ,対馬の宗氏を頼る。のち宗氏とも不和となって肥前に逃れ,1559年(永禄2)時尚(ときひさ)のとき竜造寺氏に滅ぼされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「少弐氏」の解説

少弐氏
しょうにし

中世,北九州の豪族
鎌倉幕府の御家人。初め武藤氏と称した。源平の争乱後源頼朝に従い,大宰少弐・鎮西奉行に任ぜられ筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の守護を兼ね,資能 (すけよし) がこれらの職を世襲してから少弐氏を称し,北九州に勢力をふるった。室町時代に大内氏に大宰府を追われて肥前にのがれ,のち1559年滅亡。

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世界大百科事典(旧版)内の少弐氏の言及

【筑後川の戦】より

…現存する古文書によれば,この合戦には双方とも肥前・筑前・筑後など北九州の武士が多く参加している。合戦の状況は《太平記》に詳しいが,これによると宮方の主力は肥後勢の菊池一族・名和一族や筑後勢で,武家方としては少弐氏の一族・被官や管国筑前・豊前・肥後などの武士が多くみえ,宮方の兵数8000余騎,少弐方の方は6万余騎となっている。非常な激戦とみえ,少弐頼尚の子息直資は戦死,征西将軍宮自身も負傷したらしい。…

【筑後国】より

…55年宮方は筑前に攻め入り,一色氏は長門に逃れた。59年(正平14∥延文4)8月,幕府方の少弐頼尚と宮方の菊池武光の両軍が当国大保原(おおほばる)に戦い,少弐氏は大軍にもかかわらず敗北した(筑後川の戦)。63年(正平18∥貞治2)9月には大友氏時が幕府から当国守護に補任され,守護職はそのまま子の氏継に伝えられた。…

【筑前国】より

…【倉住 靖彦】
【中世】

[鎌倉時代]
 鎌倉幕府が成立すると,伊豆国御家人天野遠景が鎮西奉行として大宰府に派遣された。遠景の解任後,武藤資頼が大宰府の現地最高責任者および筑前・肥前の守護として大宰府に下向し,資頼のあと当国守護職は資能,経資,盛経,貞経と代々武藤氏(少弐氏)によって世襲された。資能から経資の代には2度にわたるモンゴル襲来をうけ,博多湾沿岸が主戦場となった。…

【鎮西奉行】より

…87年末には義経探索の目的もあって貴海島(鬼界ヶ島)の追討を企てたが鎮西御家人は協力せず,93年(建久4)から95年の間に遠景は解任された。遠景ののち鎮西奉行が廃絶したか連続したかについては,遠景で廃絶したという説,武藤氏(少弐氏)を遠景の後任とする説,武藤資頼,中原親能を遠景の後任とし,武藤氏,大友氏の両奉行によって世襲されたという説があり,定説をみていない。鎮西談議所鎮西探題【佐伯 弘次】。…

【博多】より

…また渋川氏は,20年の朝鮮通信使宋希璟一行の博多滞在に際して,治安のために博多市街に門を作るなど,博多の都市整備にも尽力している。応永末年に渋川氏が没落すると,大内氏と少弐氏の間で博多支配をめぐる激しい抗争が続いた。15世紀中期には博多は大内教弘によって掌握され,大内氏はここを拠点として日明貿易にのりだした。…

【肥前国】より

…だが南北朝動乱の終結により,この一揆契諾は解消している。
[少弐氏から竜造寺氏へ]
 室町時代は大内氏の支援を受けた九州探題渋川氏と少弐氏の抗争の場となった。1497年(明応6)大内氏との戦に敗れた少弐氏は大宰府を追い出され,竜造寺氏の援助で肥前国を流浪しながら命運を保っていたが,1559年(永禄2)正月少弐冬尚が勢福寺城で敗死し,滅亡した。…

【武藤氏】より

…平家の家人であったが,源頼朝の挙兵の際,武藤資頼(すけより)が馳せ参じ,以後頼朝側近の武士として重用され,九州に下向して大宰少弐,筑前,豊前,肥前,対馬,壱岐各国守護に任命され,鎌倉幕府の鎮西統治の推進に貢献した。代々大宰少弐を世襲したところから,鎌倉時代末期には少弐氏を名のるようになった。モンゴル襲来の際は,大友氏,島津氏とともに鎮西武士を率いて防戦に当たった。…

※「少弐氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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