外町
そとまち
江戸時代、長崎市中の諸町の総称。早い時期に成立した内町に対する呼称で、内町の外側、北・東・南の三方に広がる。こうした地理から外町と称するとも、地子免除の内町とは異なって免除から外された町という意ともいう。天正一五年(一五八七)長崎町・浦上村・家野村・外目村が公領(豊臣秀吉の直轄領)となり、慶長一〇年(一六〇五)九月に「長崎新町」とその属邑(長崎村)が幕府領になるに伴い浦上村・家野村・外目村は再び大村家領になったという(「大村家記」など)。この長崎新町が外町に相当すると考えられる。文禄二年(一五九三)までに酒屋町・袋町・紺屋町・材木町などが造成され、のち新高麗町(のち伊勢町)・太夫町・新紙屋町(のち八幡町)・籠町などが成立したという。
外町
とまち
[現在地名]角館町横町・上新町・中町・七日町・下新町・下中町・西勝楽町・岩瀬町・下岩瀬町・田町上丁・田町下丁・竹原町
角館城下町の南半分は火除けで区分され、おもに町人が居住した。火除けの南の東側には今宮氏組下の足軽屋敷である菅沢丁の三丁と竹原町、寺院が配置される。西と南の一部に米蔵と寺院が並ぶ。元禄一七年(一七〇四)の角館町町割図(角館町立図書館蔵)に九町が記録される。
外町
ほかまち
[現在地名]柳川市保加町
上町の北、沖端川北岸にある。町人地。出橋外の南北の通りに沿った両側町および東に入る横町、伯楽小路からなる。交通の要衝で、「柳河明証図会」には「駅舎なり」と記される。北へ延びる通りは一度鉤形に折れ、北端には外町口番所、外町御門が設けられ、橋(外町橋)を経て久留米柳川往還へとつながっていた(柳河明証図会)。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数一〇二。南北の道幅二間余・長さ八七間余、伯楽小路の道幅一間余・長さ四八間余。
外町
ほかまち
[現在地名]鳥栖市田代外町
田代五町の一つ。下町角の一里山・高札場から直角に南折して緩い下り坂となる長崎街道に沿っている。町並の長さ一三〇間(基養精細録)。「明暦元年波多野新助殿大浦源左衛門殿在勤中ニ建、下町口ヨリ大道ニ候処今之大道ニ成、外町其時ヨリ延宝二年迄居家年々相増し、横町も同時ニ出来候事、外町西裏小家数建開と云て荒木衛兵衛名子也」と「基養提要」にみえて、明暦元年(一六五五)街道の付替えと同時に建てた町である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の外町の言及
【岡場所】より
…それらの私娼街を,公認の吉原以外の遊所ということで岡場所と総称するようになったのも,このころに始まる。同じころ,京都,大坂でも私娼街がふえたが,岡場所とは呼ばず,大坂では島,外町(そとまち)といった。岡場所の各個についてみれば,100人以上の女性を抱えた小遊郭といえるものから,街娼の居住地区として周辺に出没する場所までが含まれており,規模や遊興形式などは多様であった。…
※「外町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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