多芸輪中
たぎわじゆう
養老町域の牧田川以南の低湿地帯に形成された複合輪中。輪中域は東辺の揖斐川、北辺の牧田川、西辺から南辺にわたる津屋川に囲まれた一帯で、牧田・津屋両川は揖斐川に合流し、牧田川の南をほぼ並行して金草川が東流、濃州三湊で知られる栗笠湊と烏江湊境で牧田川に注ぐ。この金草川最上流部と、養老山麓を南流する津屋川の最上流部間はかつての牧田川の形成した扇状地の末にあたり、輪中域中最も高所に位置する。それゆえ大堤防もなく輪中に含まれる部分が明確でないが、高位部から流れ出る悪水を排除する除を必要とした押越村の一部および石畑村の一部あたりまでが、輪中域の北西辺とされている。輪中内には小輪中があり、押越・石畑の東で輪中北西部にあたる岩道輪中、その南に飯ノ木輪中、それらの東に下笠輪中、その南西に有尾輪中、同南に大場新田輪中、同南東に根古地輪中、その南に高柳輪中、同南西に釜段輪中などがある。
当輪中の形成は養老山麓の高台から低湿地へと進んだ新田開発に伴うもので、開発された新田を水害から守るために堤防で囲み、さらにその外を開墾し新田を開くというかたちで下流低地へと進んだものと思われる。この輪中形成はいつ頃までさかのぼるかは不明であるが、永仁六年(一二九八)三月の東大寺衆徒等訴状案(東大寺図書館蔵)に「
備進杭瀬河畔堤・多芸庄横堤等、可修固之状」とあり、堤防修理のことが記される。また年未詳の東大寺衆徒訴状案(同館蔵)には「多芸庄已下堤修固役□不限御家人役所見也」とある。暦応二年(一三三九)二月一八日の足利直義下文(土岐文書)にみえる多芸庄内「榛木」は飯ノ木あたりに比定され、応永一〇年(一四〇三)二月二八日の足利義満袖判御教書案(佐々木文書)に大跡の地名が、また永正一六年(一五一九)三月一五日の大渭社社殿造立棟札(有尾八幡神社蔵)に有尾村の名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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