日本歴史地名大系 「多芸輪中」の解説
多芸輪中
たぎわじゆう
養老町域の
当輪中の形成は養老山麓の高台から低湿地へと進んだ新田開発に伴うもので、開発された新田を水害から守るために堤防で囲み、さらにその外を開墾し新田を開くというかたちで下流低地へと進んだものと思われる。この輪中形成はいつ頃までさかのぼるかは不明であるが、永仁六年(一二九八)三月の東大寺衆徒等訴状案(東大寺図書館蔵)に「備進杭瀬河畔堤・多芸庄横堤等、可修固之状」とあり、堤防修理のことが記される。また年未詳の東大寺衆徒訴状案(同館蔵)には「多芸庄已下堤修固役□不限御家人役所見也」とある。暦応二年(一三三九)二月一八日の足利直義下文(土岐文書)にみえる多芸庄内「榛木」は飯ノ木あたりに比定され、応永一〇年(一四〇三)二月二八日の足利義満袖判御教書案(佐々木文書)に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報