大場村(読み)おおばむら

日本歴史地名大系 「大場村」の解説

大場村
おおばむら

[現在地名]金沢市大場町・湖陽こよう一―二丁目

河北潟の南東岸、森下もりもと川と金腐かなくさり川に挟まれた潟縁の低湿地平野に位置する。近世初頭まで大庭と記すこともあった(天正一四年正月二二日「前田利家印判状写」黒津舟神社文書など)。森下川は延宝期(一六七三―八一)までは当村と北接する八田はつた村の間を流れていたが、元禄期(一六八八―一七〇四)までに流路が才田さいだ村の北方に移動した(正保国図絵・元禄国絵図など)。村の周囲には柳瀬やなじ川・長田ながた(柳橋川)や金腐川の河口支流などが幾筋も流れ、潟縁では葦が群生する水郷地帯であった。これらの中小河川と河北潟を利用した水運が古くから発達しており、農作業にも船が利用された(大庭のあゆみ)。河北潟と日本海を結ぶ大野おおの川の河口が飛砂などにより閉鎖されると、潟の水位が上昇し、当村など潟縁低地に立地する村の水田はしばしば冠水し、大野川河口の浚渫工事の人夫を出さなければならなかった(「改作所旧記」など)

中世は井家いのいえ庄の内。寿永二年(一一八三)五月木曾義仲追討のため倶利伽羅くりから山に向かった平氏軍大手七万余騎が井家・津播多つはた(現津幡町)から「大庭」を経て森本もりもとまで連なったという(「源平盛衰記」巻二九)。時衆過去帳(清浄光寺蔵)の遊行一六代南要(在位一四二九―四〇)に結縁した時衆に覚阿・浄阿の名がみえ、それぞれその裏に「梅田大場」「加賀大場」と記される。加賀北部時衆の拠点が森下川を挟んで対峠する梅田の光摂うめだのこうしよう寺であったので、このような記載になったのであろう。


大場村
おおばむら

[現在地名]緑区大場町・黒須田くろすだ町・すすき一丁目・元石川もといしかわ町・あざみ二―三丁目・いち

西南部を流れる相田あいだ(黒須田川)をはじめとする小河川がつくる谷戸が入組んでいる。明治初期の字名には中の谷・打越谷うちこしやと権三郎谷ごんざぶろうやと盗人谷戸ぬすつとやと蔵谷くらやと明喜谷めいきやと古池谷ふるいけやと多良たらやと蛇久保へびくぼ長久保ながくぼ九郎次山くろうじやまなどがある(字地書上)。北・西は黒須田村、北・東は石川村、東は荏田えだ村、南は市ヶ尾村、西は下鉄しもくろがね村と接する。南端を神奈川宿(現神奈川区)から八王子道が通り、市ヶ尾村から下鉄村へ達する。


大場村
おおばむら

[現在地名]常澄村大場

東茨城台地の南部にあり、北は大串おおくし村・東前とうまえ村・栗崎くりざき村。涸沼ひぬま台・はら涸沼台古墳群・大場原古墳がある。暦応三年(一三四〇)の恒富村公田注文写(吉田薬王院文書)には「大羽 公田十七町一反十五歩」とみえる。近世は水戸藩領に属し、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大場村」とある。天保五年(一八三四)以前に北方の枝郷原新田村を合併、天保検地のとき南方の枝郷しま新田を合村した。


大場村
おおばむら

[現在地名]春日部市大場

増田ますだ新田の東の沖積地に位置する。大畑おおはた中野なかのの両村は当村からの分村というが詳細は不明。埼玉郡新方にいがた領に属した(風土記稿)。田園簿では田三四二石余・畑一三二石余、ほかに野銭永一九六文がある。元禄郷帳では高六一三石余。初め幕府領(田園簿・国立史料館本元禄郷帳)、宝永年中(一七〇四―一一)に岩槻藩領となり、宝暦五年(一七五五)幕府領に復したというが(風土記稿)、宝永期の岩槻藩五ヵ筋村高帳(光山家文書)には村名がみえない。幕末の改革組合取調書、旧高旧領取調帳にはともに幕府領とある。検地は元禄八年(一六九五)の実施を伝える(風土記稿)。文化一五年(一八一八)粕壁かすかべ宿ほか四一ヵ村は鷹捉飼場野廻役の藤塚ふじつか村遠藤園次郎の下見役廃止などを訴え出て出入となったが、その際当村名主一老は惣代を勤めている(「藤塚村野廻遠藤園次郎不法につき訴状」飯島家文書)


大場村
おおばむら

[現在地名]富山市大場

新川郡西端部を潤した広田ひろた針原はりわら両用水取水口(荒川口)近くの常願寺川左岸平坦部に位置し、北を立山道が通る。村領近くに石屋いしや新名しんみよう長屋ながやじよう横内よこうち西番にしのばんの各村との入会野があり、大場野と称した(越中志徴)正保郷帳では高八四石余、田方五町余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八三石、免四ツ三歩、小物成は野役二七匁・鮭役一四匁・鮎川役二五匁・鱒役三匁、明暦二年(一六五六)の新田高三石があった(三箇国高物成帳)。延宝元年(一六七三)の水害によって六〇石の検地引高があったが、数回の新田高・手上高により嘉永六年(一八五三)には草高六三石まで回復した(「太田組高免等手帳」・天保一一年「高免帳」ともに杉木家文書)


大場村
おおばむら

[現在地名]養老町大場

下笠しもがさ村の南東、揖斐いび川右岸の低湿地にある。西方は大場新田。大場郷ともみえる(寛永三年の多岐神社蔵懸仏裏面墨書銘)慶長郷帳に大葉村とあり、高四七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳でも同藩領で、田三〇九石余・畑一九七石余。村高のうち四五九石余が新開地。臼井本元禄郷帳では幕府領で、当村分が高六六石余、大場新田分が四七四石余となっており、これは天保郷帳の高とほぼ一致する。享保一〇年(一七二五)の大場村・同新田御城米納所一札(国立史料館蔵)は幕府城米の精選・上納方針を示したものの請書で、立会いには庄屋・年寄・高持百姓すべてがあたること、俵ごしらえには太縄を用いることなど八ヵ条が記される。


大場村
だいばむら

[現在地名]三島市大場・東大場ひがしだいば一―二丁目

大場川の左岸に位置し、西の対岸は中島なかじま村、北西は玉沢たまざわ村・谷田やた村、東は田方たがた上沢かみざわ(現函南町)。明応三年(一四九四)一二月吉日の高向二郎道者職売券(橋村家文書)に関連して作成されたと考えられる伊豆国道者注文(同文書)に「たいはノ里森甚左衛門殿 はしかひの彦四郎殿」とみえ、伊勢参詣の道者が当地にいた。


大場村
おおばむら

[現在地名]広陵町大字大場

曾我川葛城川の合流地に近く、両川に挟まれて立地。近世初頭は箸尾はしお村の内、貞享二年(一六八五)から元禄一五年(一七〇二)の間に分村。慶長郷帳では幕府領(代官北見勝忠)。元和五年(一六一九)以降郡山藩(松平忠明)領。享保九年(一七二四)段別二四町三段八畝二一歩。家数二〇(本百姓一七、水呑三)、人数九〇(男四四、女四六)、牛三、職人一(畳指)とほぼ純農村であった(和州御領郷鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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