大久保彦左衛門(ひこざえもん)で親しまれている江戸初期の旗本で、『三河物語』の著者。1575年(天正3)浜松在城期の徳川家康に出仕。幼名平助。兄忠世(ただよ)に従って高天神(たかてんじん)城の攻撃など徳川氏の五か国領有時代の諸戦で数々の武功があり、合戦後の戦士の軍功の優劣の審査の際、忠教の証言が重んぜられたという。大坂の陣には御槍奉行(おやりぶぎょう)、のち御旗奉行に転じた。領地は甥(おい)忠隣(ただちか)の所領のうち武蔵(むさし)国埼玉郡で2000石知行(ちぎょう)したが、忠隣の改易の際没収せられ、改めて家康から三河国額田(ぬかた)郡で1000石、のち同所で1000石加増され2000石となる。講談では逸話、奇行の持ち主として有名だが、事実ではない。その創作の根拠には、たとえば忠教の著書『三河物語』で述べられている徳川氏譜代(ふだい)家臣や武功の士に対する軽視への批判、3代将軍家光(いえみつ)が好んで戦国生き残りの武人である忠教をよんで話を聞いた事実などがあげられる。寛永(かんえい)16年2月29日死去。80歳。知行所の額田郡尾尻村(愛知県岡崎市)の長福寺に葬る。
[煎本増夫]
1560~1639.2.1
江戸前期の旗本。父は忠員(ただかず)。通称彦左衛門。三河国に生まれ,1575年(天正3)から徳川家康に仕える。76年遠江国乾(いぬい)の戦の初陣以来,81年の遠江国高天神城攻め,85年の信濃国上田城攻めなど戦陣のたび戦功をあげた。90年武蔵国で2000石を領する。1614年(慶長19)甥の大久保忠隣(ただちか)改易に際し,駿府によばれ三河国で新たに1000石を与えられた。大坂の陣には鑓(やり)奉行として従った。32年(寛永9)旗奉行となり,33年三河国で1000石を加増,計2000石を領した。著書「三河物語」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…江戸初期の旗本。通称平助,のち彦左衛門。初名忠雄のち忠教(ただたか)。16歳のとき徳川家康に仕え,諸合戦では長兄忠世に属し奮戦した。彦左衛門は終始,忠世・忠隣(ただちか)父子に従属し,一個の軍団を率いる部将ではなかった。関東入部後,忠隣の所領武蔵国埼玉郡2000石を知行。彦左衛門の人物については次の2例を示す。兄忠佐が無嗣のため沼津城2万石を彦左衛門に継がせようとしたところ,自身の軍功で得た領知でないからと辞退したという。…
…また当時の口語が頻繁に使用されている点で,国語学上でも貴重な資料である。成立は1626年(寛永3)と考えられるが,《三河記》《大久保忠教自記》《大久保彦左衛門筆記》などの別称で早くから写本が広く流布した。一心太助の登場する実録《大久保武蔵鐙(むさしあぶみ)》は,内容的には本書とはまったく無関係であるが,そこに見られる彦左衛門像は,本書に示された彦左衛門の性格から由来したものである。…
※「大久保忠教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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