大和久村(読み)おおわぐむら

日本歴史地名大系 「大和久村」の解説

大和久村
おおわぐむら

[現在地名]矢吹町堰の上せきのうえ川原かわはら井戸尻いどじり花咲はなさき北浦きたうら大和内やまとうち東の内ひがしのうち赤沢あかさわ子ハ清水こはしみず

隈戸くまど川沿岸に位置し、奥州道中に沿う。南西は踏瀬ふませ(現泉崎村)、北東は中畑なかはた新田村下新城しもしんじよう(現大信村)への道が西へ分岐する。白河郡に属した。大和具・大輪久とも記される。文保二年(一三一八)二月一六日の関東下知状(熱海白川文書)によれば「陸奥国白河庄□富沢・真角・大和久・葉太・大田河・小田河・趺増・赤丹沢等郷」とみえ、白河庄内の当郷以下諸郷村の地頭職が結城盛広領として記される。建武二年(一三三五)九月二四日の陸奥国宣案(伊勢結城文書)および同年一一月一五日の太政官符(同文書)に「白河郡内摂津入道々栄跡除大和久郷事」とあり、結城盛広跡のうち大和久郷を除いたものが結城宗広に与えられている。


大和久村
おおわぐむら

[現在地名]大田原市北大和久きたおおわぐ

南流する蛇尾さび川左岸丘陵崖下に集落がある。東は奥沢おくさわ村、南は赤瀬あかぜ村。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された本領のうちに「大わく、あかせ、松嶋上下」がみえ、六二五石三斗とある(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領、幕末は旗本久世領(旧高旧領取調帳)大田原宿定助郷を勤め、宝暦一四年(一七六四)の勤高六五石余(「大田原宿助郷帳」印南敬二郎文書)。また奥州街道の清掃の人夫出役があった(「大田原宿宿方明細書上帳」大田原市教育委員会蔵)


大和久村
おおわぐむら

[現在地名]南那須町南大和久みなみおおわぐ

藤田ふじた村の南、あら川左岸に位置する。前方後円墳二基・円墳六基が現存する大和久古墳群、向山むこうやま横穴群などがある。永禄年間(一五五八―七〇)と思われる一二月二四日の那須資胤書状(奈良文書)に「太和久」とみえ、那須氏の勢力下に置かれている。近世、天和―貞享期(一六八一―八八)を除いて烏山藩領であったと考えられ、慶安郷帳では田高一〇六石余・畑高一四八石余。天保七年(一八三六)烏山藩に尊徳仕法が導入された際に、飢民として粥の施しを受けた者は村民一八〇人のうち一人(尊徳全集二四)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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