日本歴史地名大系 「大和田村」の解説
大和田村
おおわだむら
- 埼玉県:大宮市
- 大和田村
大和田村
おわだむら
大和田村
おおわだむら
とあり、戦国期には関宿城(現千葉県東葛飾郡関宿町)城主簗田氏が支配していたとも考えられるが、天正一八年の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)の「幸嶋郷之内」に「二十三貫文 太和田」とあり、当時は
大和田村
おおわだむら
- 福島県:白河市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
- 千葉県:市川市
- 大和田村
稲荷木村の南に位置し、集落は
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
- 千葉県:市原市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
「三河国二葉松」には大和田村古城として「菅沼源助、次奥平六兵衛」と記す。村域南方、
大和田村
おおわだむら
大和田村
おわだむら
- 京都府:宇治市
- 大和田村
とある。元和四年(一六一八)の大和田村名寄帳(陽明文庫蔵)には、耕地反別一四町六反四畝五歩、石高一八五・六五三石と記される。また寛永一七年(一六四〇)の五ケ庄百姓改帳(同文庫蔵)によれば、戸数二五、人口一三三にすぎないが、萬福寺造立以後、集落は拡大され、門前町的機能を兼ねるに至った。
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
- 千葉県:富津市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
- 千葉県:富津市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
寺泊町の南、南は
大和田村
おおわだむら
- 長野県:佐久市
- 大和田村
西流する
永享(一四二九―四一)の頃を中心に大井庄大井氏が一円を支配し、文明年代(一四六九―八七)には支族大井行俊が
慶長一五年(一六一〇)の田之口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳(竹内治利氏蔵)に「八拾貫文 己和田村」とあり、元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)に至って「百四十弐石 大和田村」となる。
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
- 愛知県:西尾市
- 大和田村
市の東を流れる
近世の大和田村は、寛永(一六二四―四四)以後板倉内膳正領、天和元年(一六八一)幕府領、享保元年(一七一六)相給村となり、一部は旗本逸見氏領となって
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
- 栃木県:鹿沼市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
とあり、鎌倉初期には鹿島氏一族の烟田秀幹により開発所領化されていた。応永年間(一三九四―一四二八)には惣領鹿島出羽守憲幹と鹿島神宮社人との抗争の影響を受けて、一時、一色氏の支配下に置かれたが、同三三年一一月の烟田幹胤支状(烟田文書)に「先年鹿嶋社人等依申掠、惣領出羽守所帯於暫時被収公間、幹胤雖無誤、号惣領同心、幹胤知行分烟田・大和田者、一色兵部被拝領(中略)雖然出羽守無誤之旨、被聞召披、所帯悉被還補間、不及御沙汰、自一色兵部方以書札、幹胤知行分返預畢」とみえ、室町幕府の裁定により、ほどなく一色氏から返還された。
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
- 千葉県:八千代市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
大和田村
おおわだむら
- 静岡県:磐田市
- 大和田村
大和田村
おおわだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報