大和田村(読み)おおわだむら

日本歴史地名大系 「大和田村」の解説

大和田村
おおわだむら

[現在地名]大宮市大和田町・大和田

すな村の南東に位置し、大宮台地大和田片柳おおわだかたやなぎ支台の中央部西半を占める。西は砂村分水を境に土呂とろ村の見沼新田。村の中央を岩槻町への道が東西に通る。現栃木県日光市輪王りんのう寺所蔵の応永三年(一三九六)一〇月一八日に書写された大般若経巻一九六の奥書に「足立郡之内大和田村法聚山蔵林寺」とある。天正一九年(一五九一)伊達房成(房実)は当村で二五〇石を与えられた(寛政一二年「知行拝領覚」浅子家文書、「寛政重修諸家譜」)。房成は戦国期には北条氏政の家臣であったが、氏政の次男氏房が岩付太田氏の名跡を継いだ際氏房に付けられた。岩付いわつき(現岩槻市)の落城後は徳川氏に召抱えられ、当村の知行地は幕末まで伊達家に伝えられた(田園簿、寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)。当村は房成の旧領の一部であったと考えられ、房成の陣屋が置かれていた。元和二年(一六一六)から元禄三年(一六九〇)までの伊達氏用人から出された年貢請取手形が多数残されており(浅子家文書・島村家文書)、江戸時代前期には同陣屋で直接地方支配を行っていたと考えられる。

大和田村
おわだむら

[現在地名]金井町千種ちぐさ

中津なかつ川と新保しんぼ川に挟まれた台地上にあり、南は台地先端の本屋敷ほんやしき村、北は現在防衛庁管理道路を経て金北きんぽく山に至る。東は新保川を挟んで新保村・西方にしがた村、西は中津川を挟んで上中興かみなかおく村。集落は古くは、西方村の東の諏訪の瀬すわのせ付近にあったが、度重なる洪水で山麓の現在地に移ったという(金沢村誌稿本)。慶長五年(一六〇〇)の検地帳(大和田区有)では名請人五三人。苅高九千八二〇束四把・見出三千六一二束二把。中使左衛門が六八二束と中使免二一六束を所有して最も多い。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]三和町大和田

長井戸ながいど(現在は水田)東枝がさらに二つに分れたヤトの間に所在。南北に台地が続き、東と西はヤト田。北は下片田しもかたた村。長井戸沼上流に突出した舌状台地上の廿五里寺つうへいじ遺跡から出土した石器のナイフは旧石器ともみられ、ほかに縄文中期―晩期の土器・石器・土偶・装身具などが出土。天正二年(一五七四)の北条家印判状写(簗田系図)

<資料は省略されています>

とあり、戦国期には関宿城(現千葉県東葛飾郡関宿町)城主簗田氏が支配していたとも考えられるが、天正一八年の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)の「幸嶋郷之内」に「二十三貫文 太和田」とあり、当時は山川やまかわ(現結城市)城主山川晴重の領地。山川氏は慶長六年(一六〇一)越前へ転封。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]白河市大和田

久田野くだの村の北、高橋たかはし川の北岸に位置する。集落は前田まえだ溜を中心にまとまり、北方山間部に端村のいけいりがある。本村の東方に水田が広がり、三方は山に囲まれる。大輪田とも記された。康永二年(一三四三)と推定される一一月二八日の結城親朝譲状案(仙台結城文書)に白河庄の内として「大和田」とみえ、他の郷村とともに子朝常に譲られている。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]市川市稲荷木とうかぎ二―三丁目・妙典みようでん一丁目・大和田一―二丁目・同五丁目など

稲荷木村の南に位置し、集落は八幡やわた村や市川村と本行徳ほんぎようとく村とを結ぶ街道に沿って街村を形成していたが、明治四四年(一九一一)に始まった江戸川放水路(現在の江戸川)の開削のため、北西の現在地に移転した。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二三九石余、幕府領。天保一三年(一八四二)の村明細帳(国立史料館蔵)によると、元禄一五年の検地で田畑屋敷合二八町八反余(うち萱畑二町三反余)・分米合二一七石余が打出され、享保一五年(一七三〇)の新田畑検地で高一五石余(田畑二町五反余)が高入れされた。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]下総町大和田

たか村の西に位置し、南東は小野おの村。文和年間(一三五二―五六)佐々木導誉は近江国伊吹いぶき(現滋賀県伊吹町)などとともに下総国大和田四郷を領有していたが(文和三年六月七日「後光厳天皇綸旨案」佐々木文書)、この大和田が当地のことか不明。中世は神崎こうざき庄に属し、至徳二年(一三八五)の神崎庄所課祭礼物注文写(香取文書)に「四石五升 高 大和田分」とみえる。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]西淀川区大和田一―六丁目など

御幣島みてじま村の南西方にあり、東西を神崎川分流が流れる。古くより神崎川河口の港として開けたといわれ、「万葉集」巻六の「浜清く浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和田の浜」を、当地を詠じたものとする説もある。中世住吉社(現住吉区)領大和田庄の地であったという(住吉松葉大記)。戦国時代には大和田城があり三好一党が押さえていたが、石山いしやま本願寺(跡地は現東区)の砦にもなったと伝える。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]市原市大和田

北崎きたさき村の東に位置し、養老ようろう川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一三石。正保国絵図でも同高。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領であった。天和三年(一六八三)より元禄一二年(一六九九)まで高滝藩領であったとされる(文政一〇年「高滝地頭替年数」宮原家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二一五石余で家数三五、旗本布施・水野領。旧高旧領取調帳では布施領一二九石余・水野領八七石余のほか、光厳こうごん寺除地五石余・面足おもたる神社除地三石余・浅間せんげん神社除地二石余や八幡・三島みしま天津日あまつひの諸社と地蔵庵の除地が記載される。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]作手村大和田

弓木ゆんぎ村の北、徳衛とくえ川・内の沢うちのさわ川がともえ川に入る付近に集落を形成し、北には標高五三八メートルの彦坊ひこぼう山を負い、東は塩瀬しおせ(現鳳来町)と接する。近世初頭は幕府領、慶長一一年(一六〇六)から新城しんしろを領した水野分長の領分となったものと思われる。正保二年(一六四五)から幕府領、慶安元年(一六四八)に海老三千石の菅沼定賞の領分となって幕末に至る。

「三河国二葉松」には大和田村古城として「菅沼源助、次奥平六兵衛」と記す。村域南方、城山しろやまとよばれる山上に城跡がある。頂上近くに二段の郭があり石垣を残す。一名段戸だんと城ともいい、永禄五年(一五六二)奥平六兵衛吉保が居住し、天正元年(一五七三)武田氏の侵入後廃城となったという(作手村誌)

大和田村
おおわだむら

[現在地名]八王子市大和田町一―七丁目・富士見町ふじみちよう暁町あかつきちよう一―二丁目、日野市旭が丘あさひがおか二―六丁目など

あさ川北岸の加住南かすみみなみ丘陵先端部から日野台地にかけて立地。北は大谷おおや村。元禄郷帳・天保郷帳では大和田村と別に下大和田村が記載され、「風土記稿」では上大和田村・下大和田村として分けて記している。北西部が上大和田村、南東部が下大和田村にあたる。また甲州道中が日野台地から大和田坂を下ってきた辺りを中大和田ともよび、渇水期にはここから浅川に仮橋を架けて対岸に渡った。

大和田村
おわだむら

[現在地名]宇治市五ヶ庄

五ヶ庄ごかのしよう村内の東北部に位置し、古くは近衛家領であったが、寛文元年(一六六一)村域中央部に黄檗山萬福まんぷく寺が創建されたため、同五年以後同寺領となった。徳川家綱朱印状(萬福寺文書)

<資料は省略されています>

とある。元和四年(一六一八)の大和田村名寄帳(陽明文庫蔵)には、耕地反別一四町六反四畝五歩、石高一八五・六五三石と記される。また寛永一七年(一六四〇)の五ケ庄百姓改帳(同文庫蔵)によれば、戸数二五、人口一三三にすぎないが、萬福寺造立以後、集落は拡大され、門前町的機能を兼ねるに至った。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]河東町大田原おおたはら

北東は鴨田かもだ新田村、北西は方便たばかり村、南は熊野堂くまのどう村。本村の東続きに小名町和田まちわだがあり、寛政三年(一七九一)の開村。天文二一年(一五五二)一二月九日の岡崎盛道公事免許判物(新編会津風土記)に「右大和田之地」とあり、観音寺(現会津若松市)の寺領の諸役が免除されている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高六九〇石余。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]富津市東大和田ひがしおおわだ

関尻せきじり村の東、みなと川中流右岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に大如田村とあり、高二一四石。正保国絵図では大和田とする。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記載され、佐貫藩領。支配領主の変遷は田原たばら村と同様。元禄郷帳では高二七〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四〇。天保一三年(一八四二)には小商人として質物商・酢醤油豆腐商・居酒豆腐商・炭穀物商が各一軒ずつあった(関家文書)。なお宝永七年(一七一〇)当時嶺上みねがみ山の山守六人のなかに当村の伊左衛門(一人半扶持)がいた(菱田家文書)。慶応四年(一八六八)の反別二六町三反余、明治五年(一八七二)の家数四〇、年貢米二三一俵余・永二七貫余(椙山家文書)

大和田村
おおわだむら

[現在地名]富津市西大和田にしおおわだ

岩瀬いわせ村の東に位置し、岩瀬川が流れる。吉野よしの郷七村のうち。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三九四石。正保国絵図でも同高であるが、元禄郷帳では高三五七石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三三五石余で、家数五〇、旗本赤松領。天保一三年(一八四二)から武蔵忍藩領。旧高旧領取調帳では上野前橋藩領。宝暦三年(一七五三)村内秣場が開発され、千種ちくさ新田が成立した。文政一〇年(一八二七)米納の畑年貢を銭納に変えるよう再三出願し許されている(馬場家文書)。慶応元年(一八六五)の様子大概並取箇帳によれば田二五町一反余・畑一七町一反余で、年貢米は富津浦から津出しし、御林一九ヵ所・一六町三反余、家数五四・人数二七〇、馬二二で、農間には男は薪取、女は木綿織を行った。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]二宮町大和田

五行ごぎよう川を挟んで横田よこた村・おき村の西方対岸の平坦な低台地上に位置し、高畦たかあぜ古墳群・大和田南古墳などの古墳が散在する。慶安郷帳では田高一七八石余・畑高七〇石余、宇都宮藩領。貞享二年(一六八五)幕府領となり、元禄郷帳では高三三五石余、旗本松平領。その後開発された新田分(高一一石余)は幕府領となり、改革組合村では幕府領・旗本松平領の二給で、家数一〇。天保一四年(一八四三)将軍徳川家慶日光社参の際には日光街道徳次郎とくじら宿(現宇都宮市)の当分助郷(勤高一七四石余)を勤めた(「覚」小貫敏尾文書)

大和田村
おおわだむら

[現在地名]寺泊町大和田

寺泊町の南、南は郷本ごうもと村に続く海岸集落。明応六年(一四九七)一二月二一日の志駄景義譲状(西条文書)に「一所、西古志郡内吉竹・夏戸」の四方境に「大和田」の地名がみえる。正保国絵図に高一八一石余で幕府領。慶安二年(一六四九)村上藩領、宝永六年(一七〇九)から同七年まで幕府領、正徳元年(一七一一)久松松平氏の高田藩領となり、以後明治まで同氏領。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高一〇〇石二斗余。明暦三年(一六五七)の本田并見取検地帳(渡辺丹左衛門家文書)では本田・見取新田の合計高二三九石余で、うち塩役野手高二〇石六斗があり、塩釜数は七口。「白川風土記」では戸数二九。用水は夏戸なつど村山中からの水を利用する。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]佐久市大和田

西流する川が蛇行する北岸にある村。南東は湯川の対岸横和よこわ今井いまい、西は落合おちあい、東は根々井ねねい、北は根々井塚原ねねいつかばらと接する。

永享(一四二九―四一)の頃を中心に大井庄大井氏が一円を支配し、文明年代(一四六九―八七)には支族大井行俊が岩尾いわお(現佐久市鳴瀬)に居城した(四鄰譚藪)

慶長一五年(一六一〇)の田之口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳(竹内治利氏蔵)に「八拾貫文 己和田村」とあり、元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)に至って「百四十弐石 大和田村」となる。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]君津市大和田・西坂田にしさかだ二丁目

小糸こいと川下流北岸、人見ひとみ村の東に位置し、北は江戸湾に面する干潟。ほぼ東西に房総往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三四石。寛永二年(一六二五)知行宛行状により当村の五七石余が旗本向井領となり、同三年には七八石余が同石野領となった(「知行宛行状」立川家文書)。延宝五年(一六七七)の芝野争論訴状(中富自治会文書)では旗本福島領。享保二〇年(一七三五)の新田検地帳(大和田自治会文書)によれば旗本松波領で、林畑一町三反余が高入れされている。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三四、幕府領と福島領。旧高旧領取調帳では上野前橋藩領。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]西尾市大和田町

市の東を流れる矢作古やはぎふる川と広田こうた川に挟まれた沖積層に開けた集落。北は和気わき村、東は岡島おかじま村、南は高川原たかがわら村に接し、西は矢作古川をもって徳次とくつぎ村と境する。「わだ」は曲の意ともいわれるから、村名は矢作古川の屈曲部に沿う村と解される。「和名抄」に記す礼郷に属す。幡豆はず郡八郷の一に意太郷があるが、「大日本地名辞書」は、意太を「おた」と読み、御鍬村の大和田はそのなまりではないかと記す。

近世の大和田村は、寛永(一六二四―四四)以後板倉内膳正領、天和元年(一六八一)幕府領、享保元年(一七一六)相給村となり、一部は旗本逸見氏領となって拾石じつこく陣屋(現蒲郡市)の支配を受け、他は旗本筧氏領となって形原かたのはら陣屋(現蒲郡市)の支配を受け幕末に至る。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]掛川市大和田

山間を大きく蛇行する原野谷はらのや川の上流にあり、西は平島ひらしま村、南は上西郷かみさいごう村・上垂木かみたるき村。戦国期にみえる小和田おわだは当地に比定される。元亀二年(一五七一)三月四日の武田信玄判物(孕石文書)によると、孕石元泰に「小和田 萩間 たんま 手嶋 坂之名 賀嶋」で七〇貫文の地が与えられた。これらの地は天正五年(一五七七)閏七月一二日に武田勝頼によって元泰に安堵されている(「武田勝頼判物写」土佐国蠧簡集残篇)。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一九〇石余。慶長九年(一六〇四)八月の原田庄大和田村御検地帳(中山家文書)が残る。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]鹿沼市大和田町

くろ川が村の中央を南流し、東は植野うえの村、南は藤江ふじえ村、西は楡木にれぎ村・奈佐原なさはら村、北は下奈良部しもならぶ村。応永一八年(一四一一)一一月八日の宇都宮持綱寄進状によれば、「西方内大和田郷半分」が「西刑部郷内平塚村」の替りとして持綱から一向いつこう(現宇都宮市)に寄進されている。同年一二月八日、持綱は同寺領の「西方大和田半分」などの諸公事を免除している(宇都宮持綱公事免除状)。同三二年にも持綱は「西方内大和田郷上分田数壱町」を同寺に寄進している(同年六月一二日「宇都宮持綱寄進状」以上一向寺文書)

大和田村
おおわだむら

[現在地名]鉾田町大和田

ともえ川北岸に位置し、東は円満寺えんまんじ川を挟んで富田とみた村。天福二年(一二三四)一〇月二一日の烟田秀幹譲状(烟田文書)

<資料は省略されています>

とあり、鎌倉初期には鹿島氏一族の烟田秀幹により開発所領化されていた。応永年間(一三九四―一四二八)には惣領鹿島出羽守憲幹と鹿島神宮社人との抗争の影響を受けて、一時、一色氏の支配下に置かれたが、同三三年一一月の烟田幹胤支状(烟田文書)に「先年鹿嶋社人等依申掠、惣領出羽守所帯於暫時被収公間、幹胤雖無誤、号惣領同心、幹胤知行分烟田・大和田者、一色兵部被拝領(中略)雖然出羽守無誤之旨、被聞召披、所帯悉被還補間、不及御沙汰、自一色兵部方以書札、幹胤知行分返預畢」とみえ、室町幕府の裁定により、ほどなく一色氏から返還された。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]吉見町大和田

万光寺まんこうじ村の北にあり、北は古名こみよう村、西は上銀谷かみしろがねや村。東方を荒川が流れる。永享一〇年(一四三八)九月日の伝鎌倉公方御教書写(武州文書)に「吉見郡大和田村并菜田村」とみえ、当地などが岡義左衛門尉守吉に与えられている。田園簿では田高二九〇石余・畑高五五石余、幕府領、日損水損場との注記がある。「風土記稿」成立時には幕府領と旗本贄領の相給。幕末の改革組合取調書では旗本贄・筒井二家の相給。寛文一二年(一六七二)に東方、荒川堤外の新田を検地して高入れし、延宝六年(一六七八)には本検地が行われた。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]八千代市大和田

しん川西岸、現市域南部に位置。北端を東西に佐倉道(成田道)が通り、北に接する萱田かやだ町とともに大和田宿を形成する。文禄四年(一五九五)と推定される六月四日の伊奈忠次等連署手形(谷本家文書)に「大わた」とみえる。「寛文朱印留」に葛飾かつしか郡大和田町村とあり、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高一一八石余。寛政七年(一七九五)将軍徳川家斉の小金こがね牧鹿狩に際して勢子人足一一人を課せられている(江野沢家文書)。嘉永三年(一八五〇)の千葉筋成箇取付帳によれば高一三九石余、ほかに享保一五年(一七三〇)の新田二石余、寛保二年(一七四二)の新田一石余。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]海津町大和田

秋江あきえ村の南、長良川右岸に立地し、西を東大江ひがしおおえ川が南流する。天正一〇年(一五八二)一二月晦日の吉村氏吉宛織田信雄宛行状(吉村文書)裏書に新知分とし「大和田半分」とみえる。慶長郷帳に村名がみえ、高五二八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では幕府領で、高一千七石余(新開七七石余)のうち田三八〇石余・畑二二五石余、草場新開として田三七七石余・畑二三石余。この草場新開地が草場くさば村とすれば同村の開発は当村百姓によるものと考えられる。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]出島村大和田

いち川左岸にあり、南東は下大堤しもおおつつみ村、西は三ッ木みつぎ村の分地。天正期(一五七三―九二)に佐竹氏の支配下に入り、のち一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「二百四拾六石三斗三升 おかミ・太わた」とある。慶長七年(一六〇二)佐竹氏移封後は水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に小神大和田村として村高二〇二・三四石とある。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]君津市久留里大和田くるりおおわだ

向郷むかいごう村の北東、小櫃おびつ川左岸に位置する。他領市場いちば村と川を挟んで対峙するため、同村へ通ずる領内境には番所が設けられた(「亀山領分見絵図」石井家蔵)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八九石。元禄郷帳では高八三石余、天保郷帳では高九一石余。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]福井市大和田町・堂島どうじま

九頭竜くずりゆう川南側平野部にある村で、東は北野きたの村、北は北野新田村に接する。中世は藤島ふじしま庄に含まれた地で、天文八年(一五三九)の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「藤島ニ有之代弐百五十文 無正供 大和田屋敷」とある。

村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一八三九・二九六石が記される。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]栄町福島新田ふくしましんでん

福島新田の西にあり、集落は福島新田の開発に伴い入組になっていた。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)には一七〇石九斗、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付三六石五斗・荒三一石八斗とみえる。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば三軒に炉役が課されている。寛文四年(一六六四)の火事で全戸を焼失した(栄村誌)

大和田村
おおわだむら

[現在地名]磐田市大原おおわら

二之宮にのみや村の南、ほぼ南流する今之浦いまのうら川西岸にある。山名やまな郡に属する。正保郷帳に大和田村とあり高二二五石余、幕府領。うち田方二一二石余・畑方一二石、曹洞宗光昌寺領一石余。元禄郷帳では高二二六石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。

大和田村
おおわだむら

[現在地名]牛久町久野くの

乙戸おつと川右岸にあり、北はかつら村。正保―元禄期(一六四四―一七〇四)に久野村から分村と伝え(新編常陸国誌)、元禄郷帳の村高は六三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報