野火止宿(読み)のびどめしゆく

日本歴史地名大系 「野火止宿」の解説

野火止宿
のびどめしゆく

[現在地名]新座市野火止一―八丁目・ひがし一―三丁目・あたご一丁目・同三丁目・石神いしがみ一丁目・同五丁目・新堀しんぼり一―二丁目・西堀にしぼり一―三丁目・本多ほんだ一―二丁目・菅沢すがさわ二丁目・畑中はたなか一丁目・北野きたの一丁目・同三丁目・東北とうほく一―二丁目・中野なかの一丁目・大和田おおわだ二丁目、東京都清瀬市梅園うめぞの一―三丁目・上清戸かみきよと一丁目、東京都東久留米市下里しもさと四丁目・同六―七丁目・野火止二―三丁目

大和田町の南東、武蔵野台地野火止面のほぼ中央に位置する。南西から北東に野火止用水が流れ、宿内で数本に分流。中央を南東から北西川越街道が通る。近世以前は未開の原野で、野火止塚の伝説にあるように零細な焼畑農業が行われていたといわれる。野火止塚の伝説は「伊勢物語」第一二段によれば、武蔵野へと逃げてきた男女のうち男は捕らえられ、女は草叢に隠れた。ところが盗人がいるとして野に火をかけられそうになり、困惑した女が「武蔵野はけふはな焼そ若草のつまもこもれり我もこもれり」と詠んだため国司に捕らえられたとある。文明一八年(一四八六)当地付近を通った聖護院道興は、「此あたりに野火とめのつかといふ塚あり、けふハなやきそと詠せしによりて、烽火たちまちにやけとまりけるとなむ、それより此塚をのひとめと名つけ侍るよし」と伝承を記し、「わか草の妻もこもらぬ冬されにやかてもかるゝのひとめの塚」と詠じている(廻国雑記)

江戸初期川越藩主松平氏は武蔵野台地の開発を企て、承応二年(一六五三)春より八月までの間に同藩の奨励で五四軒の百姓入植。各家に金二両・米一俵が貸与されたという。翌々年の三月野火止用水開削により水が引かれ、飲料水が確保された(榎本弥左衛門覚書)。寛文元年(一六六一)五月検地が執行され、反別二一九町二反余・村高三四九石余と決定。田はなく皆畑で、川越街道の両側に一〇二軒の屋敷が街村状に並び、間口一〇間から七〇間の屋敷の裏には、それぞれ上畠・中畠・下畠・下々畠・野の順に約四〇〇間の長さで配置されるという短冊形の景観を呈した(「野火留村検地帳」旧大和田町役場文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報