明治初期の官立の医学教育機関。明治政府は、1869年(明治2)旧幕府の昌平学校、開成学校、医学校を統合して大学校とした。しかし漢洋両派の争いが激しくなり、同年末(旧暦明治2年12月)大学校が、大学と改称され、医学校を大学東校、開成学校を大学南校と称した。東京・お茶の水に置かれた大学(本校)の東と南の意である。大学は行政と教育の機能をあわせもった機関で、南校は諸藩から石高(こくだか)に応じて学生を貢進させ、外人教師による洋学教授をもくろんだものである。大学南校に比べ大学東校は学制もやや整った高等の教育機関であった。1871年東校となり、ドイツ人教師の指導の下で、プロシア軍医学校を模した教育改革が行われ、1874年東京医学校、1877年東京大学医学部、1886年帝国大学医科大学となった。現在の東京大学医学部の前身である。
[神谷昭典]
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医学校の後身。のちの東京大学医学部の前身。1869年(明治2)6月大学校の設立にともないその一部となり,同年12月に大学東校と改称。湯島の大学本校の東,下谷和泉橋通り(現,三井記念病院所在地)にあった。ドイツ人教師による医学専門教育が行われた。71年7月東校となり,第1大学区医学校をへて74年東京医学校となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…とくに臨床実習のために,小島という場所に西欧風の病院を建築しておこなうなど,本格的である。松本良順はここで学んだのち,江戸の医学所の3代目の頭取となって校則を一新するが,やがて幕府解体とともに廃校になり,明治新政府によって,大学東校として再発足(1869),現在の東京大学医学部へとつながっていく。
[明治以後の医学]
1870年,新政府は大学東校の医学教師としてドイツから2人の軍医を招聘したい旨,駐日ドイツ大使に申し入れている。…
…これは本郷湯島にあった大学本校の南にあたる神田一ッ橋に位置していたためである。医学所は下谷御徒町にあり,〈大学東校〉と称した。〈普通学ヨリ専門学科に至ル其理ヲ究メ其技ヲ精フスル〉ことを教育目標としたが,実際には洋学を通じての普通教育を行うことが主であり,とくに英語,フランス語を中心とする語学教育,多数の外国人教師によるその訓練を行った。…
※「大学東校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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