日本歴史地名大系 「大工村」の解説 大工村だいくむら 山梨県:山梨市大工村[現在地名]山梨市大工江曾原(えぞはら)村の西にあり、村内を笛吹川の支流兄(え)川が南東流する。八幡(やわた)入八郷の一つ。「一蓮寺過去帳」の延徳四年(一四九二)一一月三〇日供養の道阿弥陀仏、明応二年(一四九三)一〇月二六日供養の巧阿弥陀仏に「大工」と注記され、永正三年(一五〇六)六月一八日供養の巧阿弥陀仏に大工九良左衛門などと注記される。職業を示すものでないとすれば、当地のことか。元亀二年(一五七一)三月二六日、武田信玄は窪八幡(くぼやわた)郷のうち大工村の丸山新七郎・薗田弥九郎・又七郎らに対し、当年より両棟別銭を免除する代りに参陣を命じ、普請役および隠田が発見されたときの処置は軍役衆と同様にするとしている(「武田家印判状写」甲州古文書)。 大工村だいくむら 兵庫県:加西市大工村[現在地名]加西市大工町馬渡谷(もうたに)村・鍛冶屋(かじや)村の北、播但中央山地の南東麓に位置する。名工飛騨の匠が当村に来住し、その技を子孫に伝えたとされ(加西郡誌)、付近の奥山(おくさん)寺・普光(ふこう)寺などの建築にも当村の大工が関係したと思われる。棟梁の家系は神田姓を名乗り、現在も社寺建築を続けている。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に大工村一〇三石余とみえる。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)幕府領となるまでは国正(くにまさ)村と同じ。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by