大忍庄(読み)おおさとのしよう

日本歴史地名大系 「大忍庄」の解説

大忍庄
おおさとのしよう

香美郡東南半一帯を荘域とした広域の荘園。東北は阿波国、南西端は土佐湾に達し、西方韮生にろう(現香北町・物部村)山田やまだ(現土佐山田町)香宗我部こうそがべ(現野市町など)、東南は安芸郡に接する。「大里庄」とも記す。地形上からは、北部山間部の槙山まきやま地方(現物部村)、中部丘陵地帯の西川にしがわ東川ひがしがわ九重山くえやま地域(現香北町・香我美町・物部村、安芸郡芸西村など)、南の台地・平野部である山北やまぎた山南やまみなみなど(現香我美町)と、海岸沿いの岸本きしもと(現同町)の四地域からなる。

〔領主の変遷〕

立荘年次や成立事情は明らかでないが、「和名抄」にみえる大忍郷が荘園化したもので、鎌倉初期成立かと思われる。荘園領主も、荘全体を支配領域としていたのか、あるいは槙山分や、東川西川地域などを部分的に支配していたのか、史料を欠き不明である。また時代により領家が交替したようだが、交替の時期も不明である。「元亨釈書」巻一三(明戒六)に、

<資料は省略されています>

とみえ、北条時宗が貧民の救済に尽力した鎌倉極楽寺の僧忍性に対して、当庄の収益を与えている。これによれば鎌倉時代中期までは北条氏の支配下にあったのであろう。

「編年紀事略」に「文保二年三月十日、有栖川家ノ庄ノ政所下司等、山岡内二名及河口一宇、公事年貢懈怠ナク勤仕スヘキ旨ヲ以宗石権守ニ下知ス、件名ハ権守重代相伝ノ地ナリ」と記されており、典拠とされる同年月日の領家政所岡内二名等安堵状案(岡文書)には「ありすかわとのゝ御代御下知、大忍庄山岡内二名并河口一宇事」とある。さらに「編年紀事略」に「元弘元年十二月香美郡山郷守利名主重国等連署ノ状ヲ有栖川家ノ政所ニ捧テ員外国近カ悪行ヲ訴フ」と記されており、これらによると鎌倉末期には槙山山)の地は京都の公家有栖川家の荘園となっていたことが知られる。一方、これより先、延慶二年(一三〇九)三月二〇日付で大忍庄槙山と韮生山の境界を定めた政所書状(蠧簡集木屑)に「熊野御領之時定之」とあるので、紀州熊野神社領となっていたようである。つまり鎌倉中期・末期には熊野神宮料所となり、土佐の守護(おそらく北条得宗家)の支配下に入っていたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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